非日常
その神父は言った。
世の中に生まれてきてはならないものがある、と。
だが、それはお前ではない。お前は神に祝福され、両親に愛されて生まれてきた子供なのだ、と。
(……でしたら神父様、どうか今のこの状況を打開する策をお授け下さい)
メテリアは子供が一人入れるような鍋に一杯作ったシチューをお玉杓子でかき混ぜながら、心持ち天を仰いだ。
昼時である。メテリアは一人、孤児院全員の食事を作っていた。
「ミス・メテリア」
否、メテリア一人ではない。彼女は耳元に上質な砂糖菓子のように甘い声を囁かれてうんざりと顔をしかめた
「何でしょうか。神父様」
メテリアが振り返ると、プラチナブロンドの神父は口の端を上げた。その容貌は驚くほど端正で、闇を集めた漆黒の瞳と相まって冴えた女神をも思わせる。
一週間前から、この美しい神父は孤児院の手伝いにやって来ていた。午前の礼拝を終えてから、昼時の戦場のような孤児院を手伝いに来る。その後はまた午後の礼拝で、それが終わるとまた孤児院に来た。この神父が村にやって来てから二週間弱だが、彼の評判は高く、村人達は全幅の信頼を置き始めているようだった。その証拠に、
「あまり馴れ馴れしくなさらないで下さい。そのお陰で私はまたありもしない罪状を増やされました」
メテリアに絡んでくる少女達が、メテリアが神父をたぶらかそうとしているだの、神父はその程度の誘惑には負けないだの、神父はこう言った、神父はああ言ったと近頃うるさいのだ。
(どいつもコイツも神父、神父……)
今日は腰を痛めて手伝いに来ていない老婆さえも口を開けば、神父様はまだかね、とメテリアに尋ねてくる。
催眠術でもかけようかというほどの神父人気である。
「ミス・メテリアの反応は面白いから」
渦中の神父はメテリアの警告に近い忠告を無視して、彼女の肩に長い指を滑らせる。メテリアは背中に鳥肌が立つのを感じて肩を竦めた。それを面白がるように、神父は長身を折り曲げて彼女を覗き込む。
「こういうことをして倒れなかった人間は初めてでね」
メテリアの首筋に花弁を散らすような吐息がかかった。花の濃密な甘い香りが鼻孔をくすぐる。それが神父の唇から漏れるのだと判るとますます鳥肌が立ったので、メテリアは神父を無視してシチューをかき混ぜる作業に戻った。
「神父様は食器を運んで下さい。食卓にテーブルクロスを敷くのを忘れずに」
メテリアが丁寧な口調で心のこもらない言葉を投げると、
「そういえば、君は髪を結い上げないのかな。もう良い年齢だろう」
神父は彼女が日頃気にしていることを無神経に言ってのけてくれる。十五になれば皆髪を結い上げるのが習慣だ。だが、メテリアには結い上げてくれるような女性は居ない上、自身も髪を結うには不器用過ぎた。わずかな意地でお下げにしているが紐を解けばスルスルと滑る髪はウェーブすらも描かず、すぐさま真っ直ぐになってしまう。髪を切ることも考えたが、それは父に止められているために今や腰まで届こうかという長さだ。メテリアにとって、瞳の色の次に気に入らないウィークポイントだった。
「早く作業に移ってください」
メテリアは神父の言葉には応えず、お玉杓子でシチューを一すくいして小皿に垂らした。今日のシチューは珍しく手に入った香辛料といつもの芋と豆を煮込んでいる。小皿に取り分けたシチューを舐めると、香辛料がわずかに舌を刺激した。ミルクで味を調えれば良いだろう。
メテリアが顔を上げかけると、後ろ首に柔らかな感触を覚えて思わず動きを止めた。
微かな花の香りが、さらりと垂れかかる銀糸に混ざって流れる。生暖かい、自分の体温ではない他人の温もりがうなじを通じて伝わる。
横目で辛うじて捉えたのは、見慣れたプラチナブロンドだった。
「何をしてるんです!」
メテリアは奪われかけた感覚を自分に取り戻して自分の首筋を守るように撫でた。まだ温もりが残っており、若干湿っている。こともあろうか、神父が彼女のうなじに唇を押しつけてきたのだ。
「食べたら美味しいのかと思って」
神父は自分の唇をなぞって、行動とは裏腹に真面目な顔で眼を細める。メテリアが息を詰まらせていると、
「何が美味しいの?」
一人の少年が台所を覗いて、こちらを眺めていた。メテリアは顔を引きつらせたが、神父はさも何事もなかったように、にこやかに応える。
「今日のシチューの味見だよ」
「今日はシチューなんだ? やった!」
少年は小躍りして台所から去っていってしまう。メテリアは何とか理由をつけて留まらせたかったのだが、結局、咄嗟に理由を思いつけずに上げかけた手を空しく下げた。
「さ、ミス・メテリア。続けましょうか」
今度は皮肉な笑みを浮かべながら、神父はメテリアの腰に手を回す。
「やめて下さい!」
メテリアは乱暴にお玉杓子を神父に押しつけ、神父の手からすり抜けるとテーブルクロスを探して壁際の棚へと向かう。
何を考えているのか、今評判の神父はことあるごとにメテリアに張り付いてくるのだ。孤児院、帰り道問わず、自分の時間が許す限り、メテリアと共に行動してくる。全て彼の都合なので、メテリアの都合はお構いなしだ。メテリアは身の毛もよだつような神父のスキンシップにいい加減、堪忍袋の緒も切れそうなのだが、村人達の反応を見てしまうと、自分一人だけが神父を悪し様に扱うことはためらわれた。そんな事情も呑み込んでか、神父の行動は日に日にセクハラの色を強めていく。
「……何であんな場所に……」
棚の上にテーブルクロスがある。普段であれこんな高い場所に置くことはないのだが、昨日片づけていた神父が置いたのだろう。
メテリアは神父への反感をまた一つ増やして椅子を足場に棚に手を伸ばす。
しかし、その後ろから、ひょいと手が伸びてきてテーブルクロスを取ってしまう。メテリアが振り返ると神父がテーブルクロスを片手に微笑んだ。そのまま、神父は当然のようにメテリアの腰を抱えて椅子から彼女を降ろす。
「細いね。ちゃんと食べてる?」
「神父様……」
メテリアはこめかみを人差し指で押さえつけた。
「何ですか? ミス・メテリア」
銅像も溶かすような笑みを浮かべる神父をメテリアは睨みつける。
「セクハラで訴えますよ」
「誰も見てないのに?」
どんな犯罪であろうと、立証できなければ罪は無いも同然だ。
(神父様、天国から見ておられるのでしたら、どうかこの神父の居ない生活をお与え下さい)
最近のメテリアの切実な願いだった。




