再会
三日ぶりに外へ出ると、メテリアは路地裏を歩いていた。
昼間のうちにここを歩く者は一人もおらず、出会うのはせいぜい昼寝場所を目指す猫ばかりだ。表通りには幾つかの店が並んでいるが、必要最低限の生活用品や食料は一週間に一度、父親の使いが届けてくる。それ以外に何を買う必要もないので、昼間からメテリアは路地裏を歩いている。
今日は孤児院での下働きの日だった。必要最低限の生活用品は用意してもらえるが、生活費は自分で稼がなければならないのだ。
村営の孤児院は人手が足りないらしく、背に腹は変えられないとメテリアを雇い入れてくれた。肩書きだけは貴族でも、使用人など一人もいない生活を送ってきた彼女にとっては絶好の仕事先だった。前任の神父の口添えもあり、ようやく手に入れた仕事だが、当の神父が居なくなってしまった今、メテリアの扱いがどうなっているのかが気がかりだった。
「あら、混血児じゃない」
メテリアは足を止めて、路地の薄汚れた壁に視線を送った。
彼女と同じ年頃の少女たち三人が、メテリアを眺めて薄笑いを浮かべている。質素ではあるが小綺麗な服を着ているところを見ると、今日は学校があるらしい。だが、この時間は授業中のはずだ。
メテリアの疑問を察したのか、少女の一人が手のひらをヒラヒラと振った。
「いいわよね。アナタ、あんな退屈な授業に出なくて良いですもの」
学校をサボって路地裏に隠れているらしい。メテリアは内心呆れて足を進める。しかし、もう一人の少女に狭い道を遮られて再び立ち止まる。
「これから何処へお出かけ? 豚の血でも買いに行かれるのかしら」
冗談の中にも、ほんのわずかな怯えを見つけて、メテリアは冷めた気分になった。
「吸血鬼の子供も大変よね。あたし達と同じもの食べても味を感じないんでしょ?」
もう一人の少女が、怯える仕草でメテリアを見遣る。
吸血鬼は、人間に淘汰された自然の中でも身近な脅威である。
彼等の主食は生き血であり、人の血が好物だ。厄介なことに彼等は尋常ならざる力を持ち、自然を操る能力を備えている怪物である。そして時に、戯れにか彼等にとって餌であるはずの人間と交わり子を成すことがあるのだ。
出生率の低いその子供は、混血児、ダンピールと呼ばれている。
「急ぎますので、通していただけませんか」
「アナタにお願いされるなんて、あたしも偉くなったものね」
道を塞いでいる少女が戯けて笑う。
「アナタ、まだ解らないのね」
壁際からダンピールと呼びかけてきた少女が可愛らしい顔に妖婦のような笑みを浮かべる。
「アナタはこの村には要らないのよ。あたし達は早く出て行ってほしいの。アナタにできることはそれだけよ」
少女はふっと息を吐き出し、唇を歪める。
「アナタがいつか吸血鬼になったら、あたし達の身が危ないでしょ?」
嬌声が路地裏に響いた。
メテリアは溜息を漏らす。
混血児は確かに二分される性格を持っているが、たとえ、吸血鬼になったとしても、この少女達を襲うことは無いだろう。
吸血された人間は、グールという吸血鬼になる。グールは血への渇望が激しく、生前の記憶もない動く死人だが、混血児の吸血鬼化は記憶を保ったままの嗜好的な変化なのだ。
「本当に急いでいるんです。通していただけませんか」
メテリアは瞳を細めた。この娘達にかまうのは時間の無駄だ。
「あ、アナタ、話聞いてたの? アナタに居場所はないの! 通りたかったら表通りを通ったら?」
クリムソンの瞳に、吸血鬼が持つという赤い目を重ねたのだろうか。一人の少女に僅かな恐怖が落ちた。
吸血鬼が主に活動するのは、大都市が主で、こんな辺境の村にやって来ることはない。村人の大半は、本物の吸血鬼を見たことがないのだ。そこへ、模倣的な吸血鬼である混血児が入ってくることになれば、反応は様々だ。
訳も無く怯える者。排除しようとする者。
少女達は後者らしい。恐らく、親から延々と聞かされた恐怖を受け継いで、恐怖の根幹を追い出す英雄気分なのだ。
「急いでいますので、通していただけませんか」
「だから、アナタのお願いなんて聞く気はないのよ!」
メテリアの父は、この村も含む周辺一帯の領主だ。それを笠に着るつもりはないが、追い出されて困るのは少女達である。
馬鹿馬鹿しい。
メテリアはクリムソン色の目を吊り上げた。
「私は、お願いしているのではありませんよ」
少女達が息を呑むのが解った。
「お、脅したって無駄よ! パパに言いつけてやるから!」
話の通じない相手と対話するつもりはない。
「もう一度申し上げましょう」
メテリアは極めてゆっくりと、叩きつけるように少女達を見遣る。
「急いでおりますので、通していただけませんか」
少女達は即座に身を翻した。口々に罵られてはいたが、彼女は無事裏路地を抜けた。
薄暗い路地を抜けると、草原がある。その壊れかけの柵の向こうはなだらかな丘陵地帯で、墓地があった。整然と立ち並ぶ墓石のその向こうに孤児院はある。
メテリアは、舗装されていない小道を歩きながら路地からは見えなかった空を見上げた。
雲一つない空だ。青々とした蒼空を眺めて、彼女は溜息をつく。
先ほどの路地でのやりとりは日常茶飯事だ。辛くないといえば、嘘になる。だが、本当に怖いのは意味のないいじめではない。
もし、吸血鬼の犠牲者が一人でも出ることになれば、まず疑いをかけられるのはメテリアだ。集団ヒステリーに陥った村人達はろくに調べもせずに彼女を殺すだろう。いつかくるその時のために、メテリアはひっそりと暮らさなければならなかった。
「あーっ! メテリア姉ちゃんだぁっ!」
唐突に呼びかけられて、メテリアは周囲を見回した。
いつのまにか墓地の真ん中を歩いていたらしい。青々と茂った草むらに墓石が続いている。その周りを、広場のように遊んでいる子供達がいた。
「今日和。今日はいい天気ね」
薄汚れた衣服を着せられている子供達はメテリアを見つけて次々に駆け寄ってくる。
「姉ちゃん、今日の昼飯はぁ?」
「ねぇ、あたしの人形しらない?」
「早く遊ぼうぜ、姉ちゃん」
「この前の本の続き読んでよ」
「今日、お客さんが来てるよ」
ふと、異変を聞きつけて、一人の少年にメテリアは視線をやった。
「お客様?」
少年は大きく頷く。
「そうだよ。今、院長先生と話してる」
孤児院に客とは珍しい。だが、下働きのメテリアには関わりのないことだろう。
彼女は子供達に手を引かれて、墓地の丘を下った。
村の隣りにある山から雪解けの水を運ぶ小さな川の畔に孤児院はある。村の教会とよく似た造りで、四階建ての古い屋敷だ。
あちこち雨漏りしているが、修繕費がまかなえないほどの資金しかないため、メテリアの給金もしばしば滞る。
正面には観音開きの重厚な扉がついており、そこから入ると小さな礼拝堂がある。そこから裏手に回ると物置小屋があり、その向こうに小さなドアがついている。そこが孤児院の入り口だった。
メテリアは子供達と別れ、入ってすぐ右にある台所へ向かう。
この孤児院で働いているのは、メテリアを含めて二人。その内の一人は、村の老婆で、腰が痛くなるとしばしば動けなくなった。そのため、メテリアが一人で仕事をこなすことが多くなりつつあった。
「メテリアさん」
台所の入り口から呼ばれて、振り返ると院長がにこやかに手招きをしている。メテリアはこの中年の尼僧が笑った顔など今まで見たことがなかった。常に不安そうで世の中全ての不幸を背負うように眉根を寄せているのだ。
不気味に思いつつ、返事をすると院長はにこやかに続けた。
「喜んでね。これから新しくここを手伝って下さる方がいらっしゃったのよ」
いつも、働き手が増えると余分に給金を支払わなければならないとメソメソ泣いているというのに、どういう風の吹き回しだろうか。とりあえず、生返事を返しておくことにした。
「はぁ。それは良かったですね」
「今、いらっしゃっているからアナタもご挨拶してきてちょうだい」
メテリアは素早く目端を利かせて食器棚のカップを数えた。数が減っていない。そのくせ、一番高い茶葉の缶が消えている。
(……ということは、カップは院長先生のお気に入りを出したのね)
院長は村から支給される孤児院の維持費から少しずつくすねて裏金を作っている。その金で、孤児院での一ヶ月分の食費が飛ぶようなティーセットを買ったのだ。いつもは自室に隠し持っているが、今日は相当特別な客だったらしい。
「さ、早く行ってきて」
いつになく朗らかにメテリアを台所から追い出すと、院長は鼻歌交じりに自室へ戻っていった。
これから昼食を作らなければ、時間に間に合わない。そうなれば腹を空かせた子供が暴れ出す。だが、院長の言いつけを守らなければ即解雇だ。
メテリアは仕方なく、客間へ向かった。
正面から入ってすぐの階段を上り、二階の廊下をしばらく歩くと小綺麗なドアがある。普段は子供達の立ち入りが禁止されている客間なのだ。
ドア前に立って、ノックする。しかし返事はない。
無礼を承知で開くと、サイドテーブルに空のカップが置きっ放しになっているだけでソファには誰も座っていなかった。
帰ったのだろうか。
だとすれば好都合だ。メテリアはさっさと部屋を後にして、二階を去ってしまおうと階段を下り始める。
そこへ、階段の横を長身の男が横切った。
段へ踏み出した足を、メテリアは思わず引っ込める。
新しく派遣されてきた、彫像の神父だ。優雅に歩を進める姿はさながらお伽話の妖精のようだった。
何故、あの神父がいるのだ。
メテリアは冷や汗もそこそこに静かに後退した。顔を合わせていきなり逃げるという暴挙をしてしまったのだ。自然と足も後ずさる。
だが、あの場合はああするしかなかったのだ。暗闇でメテリアの瞳を見れば、少なからず赤く見えてしまう。神父は吸血鬼を狩ることを生業としているハンターとは違い、吸血鬼を本気で憎んでいる節がある。吸血鬼と判断できる要素のある者を徹底的に迫害する者もいるのだ。そのために、中央からやってきた世間知らずの神父のお陰で吸血鬼に分化もしていないダンピールが幾人も殺されている。
逃げるべきか、堂々と横を通り過ぎるべきか。
メテリアは即決した。
階段に足を踏み出し、下り始める。
神父が気がつかなければそれで良い。早足にならないように、靴音も小さくなりすぎない程度に立てた。
階段を下りきると、神父が向かった反対方向の台所へ向かう。
背を向けていると後ろから肩を叩かれるのではないかと怯えるが、それは極力考えないよう努めた。
あと数歩。手を伸ばせば、台所のドアの取っ手を掴むことができる。
「おや」
背中を一筋の汗が通り抜けた。
取っ手を掴みかけた手が何者かの長く細い指に絡め取られる。
「また会いましたね」
鳥肌が立つほど甘く透る声が耳元で囁かれる。
メテリアは奇しくも台所の手前で立ち往生する羽目になってしまった。自分の不運を呪いつつ、彼女は絡められた手を払ってドアを背に振り返る。
「お久しぶりですわ。神父様」
息すらも届くほどの距離でこちらを眺めているのは、案の定、先日の彫像神父だった。
昼間であるにもかかわらず、冴えた夜の空気を纏った神父は窓から差し込む僅かな陽光に肩までのプラチナブロンドの髪を煌めかせている。こんな状況で無ければ見惚れてしまっていただろうが、顔の全筋肉を総動員してメテリアは笑みを作る。
「先日は申し訳ありませんでした」
メテリアに覆い被さるような姿勢のまま、神父はにっこりと微笑んだ。笑えば、闇を彷彿とさせる漆黒の眼光が和らいだように思えた。
「突然、逃げられてしまって驚きましたよ」
メテリアは若干顔を引きつらせたが、何とか表情を保つ。
「神父様、今日は何のご用でこちらに?」
「お聞きになっていませんか?」
神父はメテリアの目に語りかけるように口を開く。
「こちらのお手伝いをすることになったのです。身寄りのない憐れな子等のお世話をさせて頂くのも、神職に努める私の役目と思いましたので」
内容は敬虔だが、甘く囁きかける口調は、およそ神に仕える身とは思えない。
近づいてくる神父の目からメテリアは自分の視線を逸らした。
「そうでしたの。ご立派なお心構えですわ」
神父はじっとメテリアを見つめて、やがて体を離した。
「……君が、ダンピールと噂されている娘さんか」
メテリアがむっとして見遣ると、神父は横柄ともいえる態度で冷めた双眸をこちらに向けている。親切丁寧な姿勢は無く、腕を組んで漆黒の眼を細めた。
応えず睨み返すと、神父は息をついた。
「あまり馬鹿にしないでくれよ。君がダンピールじゃないことぐらい判る」
意外な言葉を聞いて、メテリアは思わず眼を丸くした。
「第一、この村に君のダンピール登録はない。だとすれば…」
「……クオーター」
メテリアは眼を逸らして応える。
「人の父と混血児の母との間に生まれたの。だから血の乾きも、能力も何もないんです」
だが、父親の一族はメテリアを嫌い、領地の辺境であるこの村に追い出したのだ。
「なるほどね。じゃぁ、逃げる必要はないじゃないか」
「それは、アナタが神父だからです」
神父は苦笑した。教会の中では吸血鬼撲滅運動が激しいことを知っているらしかった。
「神父じゃなかったら逃げなかった、と?」
彼であれば、どんな格好であろうと逃げていただろう。
メテリアが顔をしかめると、神父は面白がるように口の端を上げる。
「まぁ、とりあえず話ができて嬉しいよ。ミス・メテリア」
「……私の名前……」
驚くメテリアをよそに、神父は先ほどとは正反対の神父らしい笑みをその端麗な容貌に浮かべた。
「新しく、クレメント村に派遣されて参りました。リューク・ゼプツェン神父です。以後よろしくお願いします」
その微笑みは、この上もなく詐欺師の笑み近いとメテリアは感じた。