第9話 母の関心
母は帰ってくるなり、ノックもそこそこに、私の部屋の扉を開けた。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま。ってそれより、どう? 首尾の方は?」
「うん。手紙書いて出しに行ったよ。あとは待つだけ」
「それはいいの。私の聞きたいのはそっちじゃなくって、二人っきりでどうしてたかってことよ」
母は絶対誤解している。私が日野君にそういう感情を抱いているのだと、頭の中で勝手にドラマを作っているのだろう。
今日一日、仕事をしながら、娘がどんな感じで過ごしていたのか想像を膨らませていたに違いない。
「ちょっと、そんなんじゃないから、日野君に聞かれたらどうするのよ」
「あの子リビングのソファで寝落ちしてたから大丈夫。それでどうだったの? 手紙出しに行ったのよね、そのあとデートしたのよね」
「なに言ってるの、そんなわけないじゃない。お母さんの頭の中どうなってるのよ」
「え? じゃあそのまま手紙を出して帰って来たわけ?」
「いや、まあ、そのあとちょっとはブラブラッとしたけど……」
歯切れの悪い娘に、母は薄気味悪い笑みを浮かべた。
「フーン、じゃあ夕飯の時にでも日野君に聞いちゃおうかな」
「あ、待って、そうゆう話はやめようよ」
「じゃあ今話してみてよ」
「くーっ……」
仕方なしにそのあと、彼と遠出したことを話した。
母は期待していたとおりだったみたいで、やや頬を赤らめてうっとりしていた。
「ずいぶん緑道の先へ行ったのね。あの丘まではかなりあるから彼も大変だったでしょう。日野君、あなたに綺麗な景色をみせたくて車椅子を押して坂を上がったのね。きっと二人にとって大切な夏の一日だったんでしょうね」
「そうなんだけど、そんなんじゃないから。なんでお母さんが盛り上がってるのよ」
「いいじゃない。ようやく訪れた娘の春なのよ。話くらい聞かせてよ」
「日野君だって私だってそんな風に考えてないの。意識してるのお母さんだけだよ」
的外れな考え方を改めようとした私に、母は不思議そうな顔をした。
「なあに? わざと彼の滞在期間を伸ばしたくせに、おかしなこと言うのね」
「え? なに言ってんの」
どういうわけか話が噛み合わない。母も私と同じように険しい顔をしていた。
「だって、さっちゃん、ババ様に手紙を送って、手紙で返送してもらうって言ってたじゃない」
「うん、そうだよ。それがなに?」
「手紙にこちらの電話番号を書いておけば早かったのに、手紙で返送してもらうよう段取りしてたから、そうゆうことだと……」
「あーっ!」
きっと私は青くなった。完全にやらかしていた。
「うわー、なんで気付かなかったんだろ。自分の馬鹿さ加減に開いた口が塞がらないわ。お母さんも気付いてたんなら教えてよ」
「まあいいじゃない、結果オーライって感じでしょ」
「いやいや、オーライじゃないよ。あー、またやらかしたー」
「いいじゃない。日野君だって親睦を深めたいって言ってたでしょ」
母は全く意に介さず、ベッドに腰かけている私の傍に座った。
そして私の肩より少し長い髪に手を伸ばしてきた。
「思い切って髪型いじってみる? 今のままでも十分可愛いけど、もう少し大人っぽくしてもいいかも。さっちゃんは私に似て小顔で目元がぱっちりしている美人さんだから、どんな髪型でも似合うわよ」
「今それとなく自分のこと褒めてたよね」
「だって本当だもの。お化粧なんてしなくってもさっちゃんは可愛いわよ。お父さんだってよく言ってた、さっちゃんは美人さんだって」
「うん、憶えてるよ……」
母はそのまま私の頭を抱いて、自分の肩にもたせ掛けた。
「もっと自信を持ちなさい。あなたは可愛くて優しい、そこいらには滅多にいないような女の子よ。あなたの素敵さを私は良く知ってるわ」
母は腕を解いて私を解放した。そしてもうひとこと付け加えた。
「きっと彼も気付いているのよ。あなたの魅力に」
そう言って母は部屋を出て行った。
本当にそうなのだろうか。
どこまでも明るくて、一片の陰りすらない少年は、あの時助けを求めていた私に手を伸ばしてくれた。
あの時彼に救われたのは、この体だけではなかったのかも知れない。
青い空に連れ出してもらった私の心は、今もフワフワと空を舞っていた。
母は腕によりをかけて夕食を作った。
少年は感謝を述べながら、もてなしの料理をたくさん食べた。
そして今日の一日がとても素晴らしい一日だったと、母に話しながら振り返っていた。
私がそう思っていたように、少年もこの夏の一日を素敵なものだったと言ってくれたのが嬉しかった。
少しでも少年のことを知りたくて私は色々と質問をした。
少年は箸を止めて私の質問に丁寧に答えてくれた。
「日野君の探してるお姉さんってどんな人なの」
「お姉ちゃんは、えっと、なんというか母親っぽい人かな」
「大学を卒業したって言ってたよね、だいぶ歳が離れてる感じだね」
「うん。十歳離れてるんだ。両親が亡くなったあとババ様に引き取られてからも、僕の面倒を母親みたいに見てくれてたんだ」
「じゃあ、ババ様は親って感じじゃないわけ?」
「ババ様はババ様だよ。母親って感じはあんましないな。どちらかと言えばボスって感じ」
「ボス……んー、ちょっとその感じ浮かんでこないな」
どうもババ様のイメージが良く分からない。機会があれば一度会ってみたい人物であった。
ババ様に話の流れが行きかけていた時、母がまた姉の話に戻してきた。
「それで日野君のお姉さんは今何をしてるの? もう社会人なんだよね」
「姉は今、東京都内で病院に勤めているはずです。連絡がないのでどこの病院かは知らないんですけど」
「へえ、看護師さんなのね」
「いえ、医者です。確か脳神経外科だったと思います」
「女医さんなの! え? 大学って医大? 滅茶苦茶賢いじゃない」
母はまた驚いている。やはり日野君は高級なスルメイカのように噛めば噛むほど味が出てくる。
「はい。姉は島では神童と呼ばれておりまして、父と母のように医者を目指すと高校卒業後、島を出たんです」
「なんと、ご両親もお医者さんだったんだ」
「独学で勉強して東京の大学に受かった姉は、単身東京で医学の道に邁進し六年後卒業しました。医師免許を一発合格した姉から都内の病院に就職が決まったと連絡があり、そのあと連絡が途絶えてこの状況になりました」
「そうだったの。それでババ様が心配したってことね」
「まあ僕も姉のことを心配してましたし。ババ様もあの歳ですし気弱になって、せめて死ぬ前に一目、舞に会いたいっていうもので、あ、舞って言うのは姉の名です」
「日野君の話ではババ様はすこぶる健康そうだけど、まあ寂しいのかも知れないわね」
日野君の話でババ様以外に興味深い人物がまた増えた。きっと日野君のお姉さんもクセのある人に違いない。
ひょっとすると、日野君と同じような力をお姉さんも持っているのではなかろうか。東京にいるのなら是非一度お目にかかってみたくなった。
食事が終わって、母は今は使っていない父の書斎に日野君を案内した。
数日しか滞在しないだろうが、母は娘の命の恩人であるこの少年に、できる限りのことをしてあげたいと考え、快適に少年が過ごせるようにと部屋を用意したのだった。
「今日からこの部屋を使って。あと、着替えとパジャマは脱衣所に用意しておいたから、それと必要なものがあれば遠慮せず言ってね」
少年は来客用の布団の敷かれた部屋を見て、目じりに涙を浮かべた。
「自分の家だと思ってね」
「ありがとうございます……」
声を震わせながらそう言った少年はゴシゴシと顔を腕で拭いた後、母の背に深く頭を下げた。
廊下でその姿を見ていた私は、少年のその姿を見て、自分にも何かできることは無いのだろうかと考えていた。
部屋に戻った私の携帯に、学校でたった一人しかいない友人から連絡があった。
〈帰って来た?〉
夏休みに入ってすぐに旅行に行った私を、不満顔で送り出してくれた漫画サークルの友達。
石井知里とは小学校からの付き合いだ。
クラスで隣の席になったところから始まり、少女漫画を描くことを趣味にしていた私たちは自然と仲良くなっていった。
六年生の時、私が事故にあったあとも、変わらず仲良しでいてくれた。
彼女のお陰で辛いときも乗り越えてこれた。面と向かって言ったことは無いが、彼女には言い尽くせないほど感謝している。
高校生になって初めての夏休み。サークルの先輩から出された課題で短編を一本描くことになった。
二人で一本、中編を描いていいかと先輩に交渉したところ、それでいいと了承してもらえた。
合作を認めてもらえた私たちは、二人で傑作を仕上げて、デビューしちゃおうかと盛り上がっていたのだった。
私は携帯を手に、どう返信をすればいいかと悩んでいた。
帰ったら漫画の構想を相談しようと言っていたのに、彼に会ってしまった。
数日後にはきっといなくなってしまうあの少年のことで、今の私はいっぱいいっぱいだった。
〈ただいま〉
〈よーし 明日から本番ね 明日行っていい?〉
すぐに既読が付いて、すぐにまた返信してきた。
ちょっと考える隙を頂戴よ。
また携帯を手に、なんと返信しようかと悩んでいると、今度は電話の着信が鳴った。
相変わらずグイグイくる娘だ。
私は仕方なく携帯を耳に当てた。
「はい」
「ちょっと返信遅すぎ。どんだけ待たせんのよ」
「へへへ、ごめんごめん」
「へへへじゃないよ。あ、お土産買ってくれた?」
「買ったよ。甘いやつ」
「ごっちゃんです。じゃあ明日そっちに行くね」
「あっ、ちょっと待って!」
「なあに? なんか用事でもあるの?」
もし知里がここへ来たら、間違いなく日野君と鉢合わせになる。
お母さんが仕事中で家にいない時に、男子と一緒にいたと知られたら、この子のことだから大騒ぎするに違いない。
ちゃんと説明するべきか、黙ったまま知里をやり過ごすべきか、この数日間だけ知里に待ってもらおうか……。
「おーい紗月、生きてるかー」
「ああ、お待たせ、えーとなんの話だっけ」
「ちょっと、何ぼーっとしてんのよ。明日そっちに行っていいかって話よ」
「駄目。駄目なのよ。急に予定が入っちゃって」
「じゃあ明後日ね。じゃあね」
「ちょっと待って!」
「いったい何なのよ!」
こうなることは予想できたはずなのに、全く準備していなかった。
私はこのとき、少年のことで頭がいっぱいになっていた自分に、あらためて気付かされたのだった。




