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第8話 少年と夏の一日

 少年は筆をおいて、フウと一つ息を吐いた。

 昨日私が提案したババ様への手紙を今書き終えたからだ。

 あらためて説明すると、少年の八方塞がりな状況を打開するため、私たちは最もアナログな方法をとることにした。

 つまり、ババ様に手紙を書いて今陥っている状況を伝えて、姉の住所を手紙で返送してもらうといった作戦だ。

 これなら少々日数はかかるだろうが、待っていさえすればそのうちに手紙が届き、姉の捜索を再開できるわけだ。

 母は少年を歓迎しているようだし、少年も夏休みなので時間はたっぷりある。寝食さえできれば問題ないと言えた。

 あとはババ様の寿命だが、少年の話ではまだ当分大丈夫そうなので、あまり気にする必要もなさそうだった。

 というわけで、少年と私はしばらく一つ屋根の下で生活することになった。

 家の中で少年は遠慮しながら慎ましやかに小さくなっていた。

 言い方は悪いが、まるで拾われてきた子犬のようにちょっとビクついている。

 その様子がちょっと可笑しくて、家の中にいるだけなのに、退屈なはずの夏休みがちょっぴりカラフルに彩られている気がした。

 それはいいのだが、実は私もやや緊張していた。

 それは母が旅行のために無理矢理取った休暇の埋め合わせをすべく、帰りは遅くなりそうだと言い残して仕事に出ていったからだった。

 つまり今、私は彼と二人きりなのだ。

 意識しないわけないじゃない!

 というわけで、少年がそわそわしているのと別の意味合いで、私もそわそわしてしまっていた。


「あのさ日野君、これから手紙、出しに行かない?」


 家の中に二人っきりでいるよりは、外に出た方がいくらかましだった。


 少年に車椅子を押してもらい、私たちはマンションを出た。

 陽射しが眩しい。見上げると、真っ白な入道雲が青く高い空に伸びていた。

 つばのある帽子をかぶっている私の腕に、ジリジリと太陽の光が照り付ける。


「あっつい」


 蝉の声がやかましく合唱を奏でている。

 私が車輪の横のハンドリムに手をかけようとすると、少年の手によって車椅子はゆっくりを進みだした。


「星野さん、行き先を言ってね」

「あ、ありがとう……」


 母に押してもらう時と違う感覚。

 こんな些細なことでも私には特別だった。

 横断歩道を渡って、私はそこから続く緑道を指さした。

 ほんの数十メートルの所にポストはあるのだけれど、それではあっという間に用事が終わってしまう。

 私は少しこの辺りの案内を兼ねて、日陰の多い緑道を通って一番近くの郵便局まで行くことにした。

 少年に車椅子を押してもらうことに少し抵抗があるけれど、そこは甘えることにした。


「ごめんね。疲れたら言ってね」

「え? 疲れたりなんかしないよ。しかしこの椅子、すごくよくできてるね」

「日野君は車椅子も見たこと無かったの?」

「うん。知ってたけど実物は初めて。少し押すだけで軽く進んでいくんだね」

「そうなの? 私は押してもらうばっかりでその辺は分からないんだ。郵便局までは少しあるから、休憩しながら行こうね」

「きっと僕は大丈夫。星野さんが疲れたら言ってね」


 振り返って見上げると、少年は何とも爽やかな顔をしていた。


「いい天気だね」


 頭上の楓の葉が涼し気な影を少年に落とす。

 私は何故だか少し胸が苦しくなった。


「わ、私は脚が悪いから、いつもはお母さんにこうして散歩に連れてきたりしてもらってるの。一人であんまり遠くに行くと腕が疲れちゃうから」

「じゃあ、手紙を出し終わったら、僕が星野さんの行きたいところに連れていくね」


 ドキッ。


「そんな、日野君に悪いよ……」

「どうして? 星野さんと一緒に出掛けられてこんなに楽しいのに……あ、もしかして楽しんでたのは僕だけだったってこと?」


 全く意図しなかった少年の勘違いに、私は慌てて訂正した。


「いや、違う違う。そうゆう意味じゃなくって、その……勿論私も楽しいよ……」

「そっかー。良かったー」


 そう言ってまたキラキラしてる。ちょっと嬉しくってそれ以上何も言えなくなった。


 郵便局で手紙を出し終えてから、私は日野君に車椅子を押してもらい、緑道沿いから少し外れたコンビニに立ち寄った。

 入店する前から興奮気味だった日野君は、店内に一歩入ったとたんに感嘆の声を上げた。


「すごい。こんな雑貨屋があるなんて」


 大喜びする少年に、店員はもとより他の客も奇異の目を向けていた。

 私は恥ずかしさを感じつつ、アイスクリームのコーナーに彼を案内した。


「暑かったよね。どれか好きなのを選んで」

「こ、これは……」


 アイスクリームぐらい知っているはずだ。少年が目を輝かせているのはどういうことなのだろうか。


「バリバリ君しか知ってるアイスがない……こんなに色々種類があるなんて……」

「そうか、あんまし地元では種類がないんだね」

「ここは無難にバリバリ君にしておくべきか……」

「いや、そこは冒険しなよ。大したことじゃないけど、殻を破って出てきなよ」


 そしてアイスを買ったあと、さっきの緑道沿いにある公園のベンチで一息ついた。とはいっても私は車椅子で、彼がベンチに腰かけている感じだ。

 母と散歩に出た時は、こうして時々この公園に立ち寄っては買い食いをしていた。

 買ったアイスを袋から取り出して、二人は並んで食べる。

 チョコクッキーのカップアイスにスプーンを入れた私の隣で、日野君は私の勧めたイチゴソースの入ったクレープアイスを一口齧った。


「どう? 美味しい?」

「美味しいっていうか……」

「あ、あんまりだった?」


 少年の険しいともとれるような表情に、チョイスを誤ったかと思ったのだが……。


「信じられない。こんな美味しいものが世の中にあったなんて……」

「あ、そっちだったんだね」


 どうやら感動していたみたいだった。私はちょっとほっとした。

 日野君はまた一口齧って、その甘さを目を閉じて味わう。

 私もスプーンですくったチョコクッキー味のアイスを口に入れ、その口溶けを味わう。

 あれ? なんだかいつもより美味しいかも。

 それからアイスが溶けてしまわないように、二人はしばらく無言で口を動かした。


 ザワザワ……ザザザ……。


 ほんの少し涼しい風が吹いて、頭上の葉を揺らしながら通り過ぎてゆく。

 散歩して、コンビニのアイスを並んで食べているだけ。

 なのにどうしてこんなに楽しいのだろう。


「星野さん」


 不意に声を掛けられて動揺してしまった。


「は、はい」

「ありがとう。手紙を投函するのに付き合ってもらっただけじゃなく、こんな美味しいものまで頂いちゃって」

「いえ、ただのアイスクリームだよ。それより私こそ遠くまで連れ出してもらって楽しかった。本当はもっとあちこち案内してあげたいんだけど、日野君の負担になるし、これ位しかできないんだ。色々ごめんね」

 

 冷たいアイスクリームでとびきりの笑顔を見せてくれた彼に、本当はもっとたくさん何かしてあげたかった。

 少年はアイスを食べる手を止めて、私の顔を恥ずかしくなるほど真っすぐに見つめてきた。


「そんな、僕も十分楽しかったよ。でも、できれば星野さんともう少しあちこち出かけたいと思ってるんだ。もし良ければもう少しだけ足を伸ばしたりしない?」


 少年の言ってくれたことは、私が心の中で願っていたことと同じだった。

 でも……。


「駄目だよ。日野君にそんなこと頼めないよ」

「どうして? 僕なら平気だよ。だって……」


 少年はアイスを食べ終えて、ベンチから腰を上げた。


「僕は重力を扱えるんだよ」


 きらめく木漏れ日を背景にそう言った少年の言葉の意味を、私はこのあと知ったのだった。



 母とは行ったこともない緑道のその先の景色を私は見ていた。

 後ろには車椅子の押し手のグリップに手を添える少年の姿があった。

 少年は汗をかいてはいるものの、涼しい顔で車椅子を押していた。いや、押しているのではない。彼はグリップに手を置いているだけで、実際は触れているものの方向を決めてコントロールしていた。


「すごいね。こんなことができるなんて」

「空を飛ぶよりもずっと簡単だよ。こうして車椅子に手を触れて方向を決めておけば何も力を入れなくってもスイスイ進んでいくんだ」

「わかったけど、あんましスピードを出しちゃ嫌だよ」

「大丈夫。ゆっくり行くから。だから星野さんは行きたいところを僕に言ってね」

「うん。分かった」


 こういう使い方ができるとは思わなかった。

 少年が言うにはそこまで大きくないものなら、触れているものの重力をコントロールできるらしい。

 車椅子はまるで自走しているかのように滑らかに進んでいった。


「こんな遠くまで来たのは初めて」


 そして私たちは、少し高台の見晴らしのいい丘の上に来た。

 普通なら車椅子を押して上がって来れるような場所ではない。

 少年は涼し気な顔でスロープを上がり終えると額の汗を腕で拭った。


「あ、このハンカチ使って」

「あ、いいよ。汚したら悪いから」

「また洗濯するし、気にしないで。日野君は色々遠慮しすぎだよ。こっちにいる間は私を頼ってくれていいんだからね」

「うん……」


 額の汗をハンカチで拭いながら、少年も私と同じ景色を見下ろす。

 どこまでも青い空に白く伸びる夏の雲。

 遠目に海が見えるその景色は、あまりにも鮮やかで、五月蠅いくらいの蝉の声に囲まれた私たちは、今夏のただ中にいることを感じていたのだった。

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