最終話 春風に吹かれて
「超音速旅客機オーバーソニックは、試験飛行でいくつかの不備が発見されたため、通常運行は当面見合わせるとの発表がありました。これにより音速飛行を実現する夢のエアバスが航行するのは、少なくともあと五年以上かかることになるでしょう」
エアコンの効いた自宅のリビング。白けた顔でニュースを聞いていた母は、いきなりリモコンを掴むとテレビを消した。
「あーあ、どんだけポンコツなのよ。就航セレモニーもオシャカになるし、ごたごたで日野君たちとははぐれるし、散々だったわよ」
「そうだね。ほんと悲惨だったね」
当然のことながら、母はあの日あった出来事を全く知らない。
こうやって文句を言っていられるのが幸せなことだということを、知っているのはごく一部の人たちだけだ。
「あーあ、きっともう日野君、帰っちゃったんだろうなー。紗月も、ちゃんとお別れできなかって残念だったね」
「まあ、仕方ないよ。舞さんもこっちにいることだし、きっとまた遊びに来るんじゃないかな」
「そうね。そうかもね」
部屋に戻ろうとした私に、母のからかい半分のような声が追いかけてきた。
「さっちゃんって、最近なんだか前向きね。もしかして何かあった?」
何もないと言うと嘘になる。確かにあの日、私と日野君には特別なことがあった。
でもそれは今は伏せておこう。
母の好奇心を満たすのは、まだずっと先でいい。
「さあ、どうかな。お母さんの想像に任せるよ」
「なによ、はぐらかす気?」
「そうよ。おあいにく様」
私は軽く手を振って自分の部屋へと戻る。
扉を閉めてから、そのまま車椅子を進めて、机の上の、やっと昨日でき上がった小冊子に私は手を伸ばす。
それはあの日彼に見せた、空を飛ぶ少年の物語。
そして、私はまた、彼の名をそっと口にしてしまう。
「日野君……」
胸の中にまた、さざ波が立った。
海上に墜落した少年は、もう一人の空飛ぶ人間によって救出された。
しかし、病院に搬送された少年は意識を取り戻さなかった。
それは墜落したことによる外傷ではなく、もともと彼が脳内に抱えていた病巣に起因するものだった。
意識の戻らない弟を救うため、舞さんは手術を決意した。
そして舞さんに否定的だったババ様も、彼の手術に力を貸すと申し出たらしい。
彼の手術が数日中に行われることを聞き、私は舞さんにお願いして、重力を使った手術を受けさせてもらいたいと申し出た。
彼のためになるのならなんだってする。
私は彼の手術の成功確率を1パーセントでも引き上げようと、自ら練習台になることを選んだのだ。
そして私は、舞さんとババ様の手によって遠隔重力操作による手術を受けた。まだ足の感覚はそれほど戻っていないけれど、私の手術は成功したと舞さんは言っていた。
手術後、舞さんは、貴重な経験をさせてもらったことに必ず報いると言ってくれた。
生きた人間の繊細な神経組織を遠隔重力操作を使って手術できたことは、彼女の中の不安を僅かに希望へと傾けさせたのだと、私は信じることにした。
そして私は今、祈るような気持ちで窓から空を見上げていた。
夏が終わり、ようやく少しは涼しくなり始めた九月。
今頃、日野君は舞さんとババ様の手で、遠隔重力操作による手術を受けている。
きっとまた会える。
私はそう信じる。
たくさんの命を救ったあなたが、ここで終わっていいわけがない。
あなたはきっと帰ってくる。
あの日、そう約束してくれたように。
そして、帰ってきた時に、この本を君に手渡そう。
ハッピーエンドで終わるこの物語を。
「私、待ってるね」
そう呟いた私の頬を、一筋の涙が流れ落ちていった。
季節は流れ。
満開に咲いた桜が私の視界に広がっていた。
早春の冷たさの残る四月の朝。
朝露で濡れた遊歩道を通って、この公園までやって来た。
まだ新学期も始まっていない春休みに、相棒の車椅子とここへやって来たのは、小さな約束があったから。
いや、約束とは言えないほどの、ささやかな願い。その程度の口約束を私はあの日少年と交わした。
島に一本しかない桜の樹の話をしていた少年は、この公園にある、たくさんの桜の樹々に目を輝かせ、咲き誇った花を見てみたいと楽し気に語っていた。
私が描いたあの物語のエンディング。
最後の頁に私が描いたこの場所。離れ離れになった少年と少女が再会するのが、この美しい公園だった。
大きく枝を伸ばす桜の樹の傍に車椅子を停めて、あの日、少年が想像したであろう満開の桜を、いま私は一人、見上げている。
「咲いたよ」
そして私は、車椅子のステップから足を降ろす。
まだ踏ん張りがきかない脚に神経を集中させて、ひじ掛けを掴む腕に力を込める。
ゆっくりと、いつも見慣れた視点が上に移動して行く。
そのもどかしさと格闘しながら、やっと膝が伸びきるまで脚を真っすぐにすると、世界の見え方が少しだけ変わった気がした。
車椅子のひじ掛けから手を放し、手の届く太い幹に腕を伸ばして、私は何とか体を支える。
その不安定さに、やや緊張しながら顔を上げると、桜色の天井が、ほんの少しだけ近くなっていた。
「きれい」
気まぐれな春風が吹き抜けていく。
晴れ渡った青い空を背景に、ほんのりと色づいた白い花びらがスウッと舞っていく。
そして私は気付くのだ。
舞い上がった花びらの向こうの、雲一つない高い空に、小さな白い何かが飛んでいることに。
真っ青な空を貫くその白い飛翔体は、陽光を跳ね返しながら近づいて来る。
そう、どこまでも自由なその姿を私は知っている。
私は片ほうの手で体を支えながら、もう一方の腕を伸ばして大きく手を振る。
そしてまた、あの高い空から、音速で空を飛ぶ少年は再び私の前に姿を現すのだ。
あの懐かしい、太陽のような笑顔をその顔に浮かべながら。
――完――
ご読了頂きありがとうございました。
どこまでも自由な少年と、自由に憧れを抱く少女の物語は春の訪れとともに、ようやくエンディングを迎えました。
少女が望み描いた少年とのハッピーエンドは、想像の世界に留まることなく、再び青い空から舞い降りた少年によって、少女のもとへと届けられたのです。
再会を果たした二人は、きっとまたあの青い空へと舞い上がっていったのでしょう。
そして高い空のどこかで、どこまでも自由な少年と同じ、太陽のような明るい笑顔を、きっと少女も浮かべている。
そう私は思い描くのです。
困難を乗り越え、一つの結末を迎えた二人は、これから未来へと足を踏み出します。
少女の描く、空を飛ぶ少年の物語は、きっとこれからも続いていくのでしょう。
そして、その物語がいつか迎えるエンディングはきっと……。
それではまたお会いできることを願って。
ひなたひより
 




