第40話 オーバーソニック
少年は音速を超えた時に起こるその凄まじい負荷を、歯を食いしばって耐えていた。
いわゆるソニックブームと呼ばれる、音速を超えた時に起こる衝撃波は、生身で飛行する少年には耐え難いほどの付随品であった。
飛行するにあたり、少年は特別性のスーツを身につけていた。そして鼓膜を保護するのと同時に通信をするためのイアホンも。
それらをもってしても、音速を越えるにあたり避けられないこの苛烈なオマケに対抗するには、まるで不十分だった。
少しでも気を抜けば、オーバーソニックを模して形成した重力の膜が崩壊し、墜落してしまうだろう。
少年は並外れた超人的な集中力でその形状を維持し、重力の方向を安定させて飛行し続けた。
通信が途絶えて未だ回復していないが、目標である白く輝く機体を、少年の目は遠い空の向こうに捉えていた。
時速1820キロ。
実際に自分がどれだけの飛行速度で飛んでいるのか知る由もないが、このとき少年は、驚くべきことに、ほぼマッハ1.5で飛行していた。
障害物も何もない空の上では、その速度を体感できるものは空気の抵抗ぐらいしかない。
しかし、空気の壁にぶつかって行くような感覚が、とんでもない速度で飛行していることを少年に告げていた。
そして突然通信が回復した。
「颯、減速を始めなさい。このままだと通り過ぎてしまう」
ババ様の声に、少年は加速し続けていた重力のコントロールをやめた。
惰性で進み続ける少年に、ババ様が的確な指示を伝えてくる。
「進路を少し左に。あと三十秒ほどそのまま飛行してから、いま形成している膜の空気抵抗を30パーセントほど増やしなさい」
「了解」
遠目に見えているオーバーソニックの前方に、深緑色の機体が飛行している。さらに接近していくと、事前に聞いていた自衛隊の輸送機からの通信が少年の通信機に入ってきた。
「こちらC2、応答願います」
かなり近づいたお陰か、耳に入ってくる音声はノイズも少なくクリアだった。
「通信良好です。指示をお願いします」
「輸送機の後方に回って、飛行速度を合わせて下さい。それから後部ハッチを開けます」
「了解です」
少年は旋回し、丁度輸送機の後部に連なる様、飛行速度と位置を調整した。予定していた一連の動作をすぐにやってのけれたのは、少年が誰よりも飛行することに関して精通しているからに他ならない。
通信士の声のトーンが先ほどよりも高く聴こえたのは、少年の鮮やかすぎる飛行技術に対して興奮を隠せなかったからなのだろう。
「今からハッチを開けます。そこから搭乗して下さい」
ゆっくりと解放されていくハッチに近づいて、少年はそのまま開口部から輸送機の中へと侵入した。
ハッチを開けた状態の庫内は、猛烈な強風にあおられているような状態だった。
中で待機していた二人の隊員は、機内の柱にベルトで体を固定した状態で、少年を迎えた。隊員たちはマスクをしていたが、唯一見えている目の部分に、度肝を抜かれてしまったかのような様子がありありと伺えた。
隊員は二人がかりで、相当重量がありそうな蟹の爪のような物を手にしていた。それがオーバーソニックをけん引するためのフックであることは明らかであった。
そしてまた、少年の通信機に指示が入ってきた。
「これをオーバーソニックの先端部分にあるバーに引っかけて下さい。オーバーソニックの機長には、先ほどノーズを開口してけん引用のバーを露出させるよう連絡しておきました」
「それだけですか?」
「はい。あとはC2と繋いであるワイヤーであいつをけん引するだけです。それより、かなり重いですよ。大丈夫ですか?」
「ええ、重いものは得意です」
「そうですか、健闘を祈ります」
二人がかりで持っていたフックを、少年が軽々と手にしたのを目にして、隊員は二人とも目を剝いていた。
「ご健闘を」
「はい。行ってきます」
そう言い残して、少年は再び空へと飛び立っていった。
管制室は静まり返っていた。
少年が無事に輸送機と合流し、たった今、連結の作業のためにオーバーソニックへと向かったと連絡があった。
ババ様はここからが難関であろうと言っていた。
これまでは重力の膜を最適な飛行形態に維持しておけば何とかなった。
しかし、ここからは、フックとワイヤーの重量を、重力操作でカバーしつつ飛行しなければならない。さらに減速しているとはいえ、かなりの速度で飛行中の機体と同じ速度で飛行しなければならない。
重力操作を分散させ、同時に困難な作業を機体を損傷させることなく遂行するという今回の任務を、ババ様は空中で行う曲芸のようなものだと表現した。
一歩間違えば大事故になる。そして少年もただでは済まない。
彼以外に成し遂げることの出来ないことだとしても、何の関係もないただの高校生の少年に、航空会社が起こした不祥事の責任を押し付けているこの現状を、私は異常だと感じていた。
緊張した面持ちのまま、空へと飛び去った彼は、あの時いったいどんなことを考えていたのだろう。
「日野君……」
今この瞬間も、彼はたった一人で大勢の命を救おうともがいているのだろう。
祈る様に手を組み、次の通信を待っていた私の傍に、舞さんが並んだ。
「心配だね」
「はい……」
誰よりも弟を溺愛していたこの姉は、今は言葉少なく私と同じように彼の無事を祈っている。言葉にしなくともそう察することができた。
「颯は、うん……きっと大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるように、舞さんはそう呟いた。
そして、通信が入った。
「失敗したみたいです。ですが、少年は体制を立て直してすぐに再トライに入りました」
「残り時間は?」
「少年の到達が早かったので、まだ八分はいけそうです」
「そうか……」
報告を聞いた長官は、それ以上何も言わずに席に着くと、額に手を当てて祈るように目を閉じた。
誰も何もできない。
ただ少年が、この奇跡のような作戦を成功させてくれることを願い、祈っていた。
「頑張って……」
たった一人で困難に立ち向かっている少年に、私は何もしてあげられない。
その時、隣にいた舞さんが落ち着いた声で、ある話をしてくれた。
「私はね、颯と歳が十も離れているせいか、姉というよりも母親っていう感覚がけっこうあるんだ。あの子は可愛くって頼りなくって、どうしても先回りして守ってあげたくなる弟なの」
「はい。舞さんを見てたらそんな感じですね」
「本当に素直で、明るくって、独り占めしたくなる可愛い子。いつまでも傍に置いておきたいと本気で思っていたわ」
見上げると舞さんは口元に笑みを浮かべていた。
「今回だって颯を守ってあげたかった。出来ることなら行かせたくなかった。私はね、紗月さん、本当は引き止めようとしたの。でも弟を止めることは出来なかった。あの子はいつの間にか大きくなってた。やっと今日、そのことに気が付いたの」
そして舞さんは私の肩にそっと手を置いた。
「あの子はあなたに恋をして、とても大きく成長したみたい。そして大きな困難に立ち向かう力をあなたに貰ったんだと思う」
「そんな、私は何も」
舞さんから出た恋という言葉に、こんな時なのに私は頬が熱くなるのを感じた。
「いいえ、私には解るの。あなたは特別な何かをあの子に与えたんだと」
舞さんは何か確信でもあるかのように私にそう言った。
私はそんな特別なものなど、彼にあげれていない。きっと舞さんの買い被りだ。
「私は……」
考えも纏まらないまま口を開いた時、再び通信が入ってきた。
「こちらC2、少年がオーバーソニックとの連結に成功しました」
そして、管制室にいた全員が歓声を上げた。




