第37話 秘めた想い
車椅子を押す日野君は、今日は少し無口だった。
等間隔で窓から射し込む陽光が、私達を照らし出す。
長い長い通路をゆっくりと進んでいく車椅子。
こうして彼に背中を押してもらうのは今日で最後。
こうしていられることがとても幸せで、とても切ない。
淡い想いを抱いている私と同じかは解らないけれど、きっと彼もそう思ってくれている。そう私は感じていた。
世界中が注目する超音速旅客機が、あと四十分ほどでここへやってくる。
誰もがその美しい雄姿を早く見たいと願っているその間に、私はこの陽光の射し込む誰もいない通路で、きっと一生忘れることの無いであろう一瞬を迎えようとしていた。
胸が高鳴る。
掌が汗ばんでいるのが分かる。
膝に置いた鞄が、とても頼りなく感じられる。
夏休みに高校生が描いた恋物語。
それは稚拙で、人に見せれば笑われてしまいそうな、とても上手いとは言えないほどの未成熟な作品だ。
それでも、今自分にある全てをこの物語に注ぎ込んだ。
決して君が涙を流すことの無いこの物語。
私よりもずっと早く旅立ってしまうのかも知れない君に送りたい、明るく眩しい君に相応しいハッピーエンド。
そして私は、車椅子を押す彼を振り返る。
「ごめんね、わがまま言って付き合ってもらって」
「いいんだ。星野さんと一緒にいられて嬉しいんだ」
その変わらぬ笑顔を見上げて、私はその時が来たことを知った。
「ここで停めてくれないかな」
「うん」
車椅子が止まると、私の心臓は音が聞こえてきそうなくらい高鳴り始めた。
「あのね、日野君」
「うん」
私は膝の上に置かれた鞄から、原稿を取り出した。
「日野君がモデルになってくれた漫画、出来上がったんだ……」
「本当? 僕に見せてくれるの?」
「うん。日野君に最初に見てもらいたくて、持って来たの」
背後にいた日野君が、私の前に回り込む。
窓から射し込む陽射しが少年の肩にかかる。優しい笑顔を見せる君に、また私はくぎ付けにされてしまうんだ。
「ありがとう。読ませてもらうね」
私の手を離れ、原稿が少年の手へと渡った。
もう引き返せない。
これを読むことで君は、隠してきた私の想いを知ることになる。
でも知って欲しい。
あなたに憧れて、いつしか恋をしてしまった私の全てを。
私の前で、一ページ目に目を落とした少年は、そのタイトルを小さく呟いた。
「その少年は音速で空を飛ぶ……」
日野君は原稿から私に視線を戻して、とても嬉しそうな笑顔を見せた。
「素敵なタイトルをありがとう」
「うん。きっと日野君ならその速さで飛べるんだと思って」
「そうだね。僕もそんな気がするよ」
そして日野君は、ゆっくりと噛み締めるように、私の描いたささやかな物語を読み始めた。
言葉をかけるのが躊躇われるくらい、日野君は黙々と原稿を読み続けた。
それは以前、彼が図書館で見せた時と同じ、特別な集中力のようだった。
原稿の終盤、日野君は何度か深い深呼吸をして見せた。
なんだかそれは、昂ってしまう気持ちを落ち着かせようとしているかのように、私には見えた。
最後の頁を読み終えた日野君は、そのまま言葉もなくじっとしていた。
うつむいたままの日野君の顔をよく見ようと私が覗き込もうとしたとき、ポトリと床に雫が落ちていった。
日野君は最後の頁に目を向けたま涙を流していた。
「日野君……」
彼が最後に笑顔を見せられるよう描いたつもりだった。
頬を伝う幾筋もの涙を見て、私は動揺してしまった。
「あれ? えっと、どうしてかな? そんなつもりじゃなかったんだけど……」
あたふたし始めた私を見て、日野君は腕で涙を拭った。そして大きく息を吐いてからこう言った。
「ハッピーエンドだ……」
言い尽くせない何かが、少年の声を震わせる。
「君と僕の物語はハッピーエンドを迎えるんだね」
「うん。そうだよ。空を飛ぶ少年は幸せになれるんだよ」
日野君は涙を止められないままの顔で笑って見せた。
「ありがとう星野さん。嬉しくて嬉しくて、どうしても涙が止まらなくなっちゃった」
「そっか、嬉し涙だったんだね、それなら良かった」
「うん。こんなに嬉しいエンディングが待っていたなんて、本当に夢みたいだ。ありがとう。本当にありがとう」
「喜んでくれて、私も本当に嬉しい。あ、知里もきっと大喜びだよ」
「そうか、知里先輩との合作だったね。お礼を言わないと」
「うん、あとで言ってあげて」
日野君は丁寧に原稿をまとめてから、それを私の手に戻した。
鞄の中に原稿をしまうと、気恥ずかしさから少し言葉が出てこなくなった。
「えっと、この原稿、コピーしてサークルで冊子に仕上げるんだ。カッコいい表紙で綴じて、出来上がったものを日野君に送るね」
「うん。ありがとう。楽しみにしてるよ」
日野君はもう涙を流してはいなかったが、私の前で少しそわそわしながら突っ立っている。
それがどういった心情から来る挙動なのか、当然私にはわかっていた。
フィクションとはいえ、現実に沿った物語を漫画にしたのだ。途中で車椅子のヒロインが空飛ぶ少年に恋をしていたことが描かれてあった。
恐らく、いや、100パーセント、私が少年に好意を抱いていたということを、原稿をとおして知られてしまったはずだった。
どこまでも自由な彼に私なんかが釣り合うはずがない。
今もそう思っている。
それでも好き。
好き。
大好き。
「日野君あのね……」
言葉で打ち明けようとした私の目線に、彼は膝を折って視線を合わせてきた。
少年の手が私の手と重なった。
彼の顔が近づいてくる。
えっ。
そして私は、そのまま彼に抱き締められていた。
また心の中に風が吹き抜けた。
ああ、まるで空に浮かんでいるような感覚だ。
きっと彼は特別な力を使っていない。ただ私の体に腕を回して抱きしめているだけ。
それでも私はフワフワと浮かんでいるような気分だった。
そのままどこかへ飛んで行ってしまわないよう、私は彼の背中に腕を回す。
そうしていると、とても幸せで心から安心できた。
「星野さん、僕……」
耳元で彼の声がする。
私は夢を見ているかのような気持ちで、彼の次のひと言を待った。
「君に伝えたいことがあるんだ……」
抱きしめていた腕が解かれて、少年が私に真剣な眼差しを向けた。
そのあまりの近さに、私の心臓はいっそう高鳴る。
熱に浮かされたかのように頭がぼんやりとしてしまう。効いているはずの空調も、何も感じなくなるほど体温が上昇しているのが分かった。
目の前の少年が、躊躇いながらも何か口にしようとしている。
ゴクリ。
静寂の空間で、生唾を呑み込んだ少年の喉が動いた。
今日見せた原稿には告白シーンはない。現実が空想の物語を、今追い越そうとしていた。
「日野君! 日野颯君!」
静寂の通路に響いた声は、あの八代という女の人の声だった。
ハッと我に返った私は、慌ただしく駆けてくる八代さんを振り返った。
さっきまで凛として落ち着いていた彼女の顔に、焦りと緊張が表れている。何かが起こったのだと容易に想像できた。
「どうしたんですか? そんなに慌てて」
落ち着いた声で対応した日野君に、八代さんは大きく息を吐いてから真面目な顔でこう言った。
「緊急の要件が出来ました。私に付いて来てください」
「緊急って?」
「詳しいことは後程。フサエさんがお待ちです。急いでください」
ただ事ではない雰囲気に、少年の顔にも緊張が走ったのだった。




