第3話 少年との再会
無謀にも、男の子を助けようとして湖に飛び込んだ私を、母は顔を真っ赤にして泣きながら叱った。
それはそうだろう。命が助かったのは奇跡としか言いようがない。
あの少年が現れなければ、間違いなく二人とも溺れ死んでいたであろう。
その後、男の子から目を離していた親からは感謝されたものの、ずぶ濡れになった私は、結局遊覧船に乗らずじまいだった。
母からは、もう二度と誰かを助けようとして湖に飛び込んでは駄目だときつく言われた。
私は素直に謝ったが、おそらくもう二度とこんな状況になることもないだろう。
それにしても……。
私はまた考えてしまう。
いったいあれはなんだったのだろう。
夢中でしがみついていた男の子は何も見ていなかったようで、空を飛ぶ少年のことを何一つ話さなかった。
待合で待っていた大人たちも、そのことに気付いている者はいなかったようだ。
人間が空を飛ぶなんて……。
母や周りの大人たちには、通りがかりの少年に助けられたとだけ言っておいた。
正直に話したとしても、溺れそうになって混乱していただけだと、あしらわれるのが関の山だ。
そしてあながち、私が話したことは誤りではないと思う。
ただ、歩いて通りがかったのではなく、飛行中に、溺れていた私たちと出くわした。きっとあの場に少年が居合わせたのは、単なる偶然だったのだろう。
北海道を満喫しようと思っていたのに、あの少年のことが頭から離れず、結局そのことばかり考えているうちに、船内泊を含む4泊5日の旅行は終わった。
旅行の最終日の夕方、苫小牧から出航した帰りのフェリーに乗った母と私は、船内のレストランで早い夕食を済ませると、真っすぐ今夜宿泊する船室に戻った。
長距離を運転したせいだろう、船室に戻った母は少し眠たそうな様子でベッドに腰かけ足を伸ばした。
「どうする? あとで船の中、散策してみる?」
「ううん。行きの船と同じでしょ。お母さんも運転で疲れてるだろうし、部屋でゆっくりした方がいいよ」
そのうちに狭いベッドで母は眠ってしまった。
船室の小さな窓から見える水平線が茜色に染まっている。
船上からのサンセットを見ておきたくて、私は母の眠りを妨げないよう細心の注意を払い、船室を抜け出した。
車椅子で展望デッキへとやって来た私を、潮風が迎え入れた。
解いていた髪が、頬にまとわりつく。
気になる髪の毛を指でかき上げると、船室から見えていた夕日は、今まさに本日の公演を終えようとしていた。
「きれい」
そのフィナーレを目を細めて鑑賞し終えても、私はまだその余韻にしばらくのあいだ浸っていた。
気が付くと、さっき茜色だった遠く波立つ水平線は、日が落ちたせいで少し青みを帯びたマゼンタへと変わっていた。
潮風に吹かれながら、明るく瞬き始めた気の早い頭上の星を見上げてみる。
一番明るい星に片手を伸ばした私は、またあの少年のことを考えてしまっていた。
「名前だけでも聞いとけばよかったな」
そう呟いて、車椅子のハンドリムに手をかける。
反転して、客室に戻ろうとしたときに、デッキの隅に人影があるのに気がついた。
誰もいないと思ってたんだけど……。
ただ単にサンセットに気を取られていたせいなのだろう。私以外にも観客がもう一人いたようだ。
このとき船内に戻ろうとしていた私は、なんだか突然に現れたようなその人影に、なにかしらの興味を覚えた。
展望デッキの一番端で、小さめのリュックを背負っているその人影は、どうやら男の子のようだった。
少し顔が見え辛い角度だったので、車椅子を移動させて遠目に覗いてみた。
そして私は言葉を失った。
手すりに腕をのせて、遠い波の向こうに眼差しを向ける横顔に見覚えがあったからだ。
「あーーっ!」
思わず大きな声で指さしていた。
あの少年だった。
少年は手すりに腕を乗せたまま、吃驚した顔でこちらを向いた。
分かり易いくらいの戸惑いの表情を浮かべた少年が、とにかくもどかしい。こっちはすぐに気付いたが、少年の方は私が誰だか、まるで気が付いていないみたいだ。
少年はサッと目をそらして、そそくさとその場から立ち去ろうとした。
私は大慌てで、逃げ出そうとする少年を呼び止めた。
「ちょっと! ちょっと待って!」
少年は怖々振り返った。変な人に絡まれてしまったといった感じに見受けられた。
「私です。覚えてませんか?」
「えっと、多分人違いだと思いますよ……」
少し振り返った少年は、あまり視線を合わせようとせず、おずおずとそう口にして、再びこの場を去ろうとした。
「待って。湖で助けくれた人でしょ!」
「えっ?」
少年は足を止めて、ようやくこちらに向き直った。
私の顔をまじまじと見てくるも、やはり印象になかったのか、眉間に皺を寄せたまま困惑している。
こっちは顔をしっかり覚えていたのに、少年には私の印象が残っていなかったことに、ちょっとした腹立たしさを感じてしまった。
「溺れかけていた私たちを助けてくれたでしょ。お礼もまだ言えてなかったし、気になってたんです」
合点がいったのか、少年はようやく落ち着きを取り戻し、あのときに見せた笑みを浮かべた。
「……あの時の子だったんだ。そうか、あの桟橋にあったのは君の車椅子だったのか」
そうか、あのとき、溺れていた私たちを助けて空に消えた少年は、車椅子に乗る私の姿を見ていなかったのだ。
「あの、お礼を言うのが遅くなってしまいましたが、本当にありがとうございました」
「あ、いえ、お役に立てて良かったです」
やや照れつつ、少しズレた感じで返してきた少年に、ちょっと可笑しさが込み上げてきた。
「ウフフフ、お役に立ったどころか、命の恩人ですよ」
「あ、そうか、そうですよね。言い間違えました」
意外と話しやすい少年に、いつの間にか私の中には、余裕というものが生まれていた。
そして同時に、無心で少年を呼び止めただけの心の中に、抑制できないほどの好奇心が芽生えていることに気が付いた。
少年は同い年くらいか少し年下に見える。学校の同級生の男子と頭の中で比較してみたが、なんだか根本的に雰囲気が違う。
まるで屈託のないその笑顔は、内面から人の良さが滲み出している感じだ。
少し耳にかかる程度の艶のある短い黒髪に、すっきりした目元、頰のあたりがピンクがかっていて、母性本能がくすぐられそうだ。
ちょっと子供っぽいと思われそうな、動物のプリントされた白いTシャツを着ている。
なんだか可愛いな。
ちょっと失礼かもしれないけれど、そう思ってしまった。
「あ、あの、私、星野紗月って言います。あなたのお名前も聞かせてもらっていいですか」
「日野颯です」
陽が落ちてもまだ明るい、グラデーションの美しい空の下。
私の前に再び現れた空を飛ぶ少年は、少しはにかんだ顔で自己紹介をしたのだった。