第28話 夏の午後
夕食後、カレンダーを見上げて険しい顔をしていた私に、台所にいた母が声を掛けてきた。
「どうしたのさっちゃん、カレンダーと睨めっこしてるみたいだけど」
「うん。日野君、お姉さんがお盆休みに入ったら帰っちゃうんだったよね」
「そうね。じゃあもうすぐだわ。寂しくなるわね」
母は麦茶を淹れてテーブルに置くと私を手招きした。
私は車椅子を動かしてテーブルのグラスに手を伸ばした。
母は少し日野君の話をしたいみたいだ。私が落ち込んでいると思ってずっとその話題を避けていたみたいだが、私から彼の話をしだしたので、それならと思ったのだろう。
「あれからどうしてるのかしらね。東京のお姉さんの所で退屈してるんじゃないかな」
「そうかもね……」
母は私があれから日野君と二度会っていることを知らない。
知られたら勿論マズいことになるので、良心はやや痛むものの、ここは話を上手く合わせておくしかない。
「東京にいる間にもう一度会いに行く? 乗せてってあげるわよ」
「えっと、いや、向こうも都合があるだろうし、気も遣いそうだから止した方がいいかも」
「そうよね、きっと気を遣うわね」
日野君は明後日の金曜日に漫画サークルに顔を出すので、ここへ来る予定だ。
その時が最後になるのだろうか、それとも、もう一度くらい会いに来てくれたりするのだろうか。
暗いうちとはいえ、空を大っぴらに飛ぶのはどうかと思いつつ、彼がまた来てくれるのを期待してしまっている自分もいた。
そのうちにニュースにならないよう祈るしかない。空を飛ぶ人間がいると認知された時点で相当マズいことになるのは確実だ。
その辺のことを何も知らない母は、日野君が帰ってしまうことに早くも感傷的になっていた。
「なんだか寂しくなるわね。うちの子になってくれてもいいって思ったくらい、いい子だったわ。あ、うちの子になったらさっちゃんが困るか」
「どうゆう意味よ」
「今あなたが思い浮かべたとおりの意味よ」
母は私が日野君に気があるって思い込んでる。実際そうなのだけれど、なんだか認めるのも癪に障った。
茶化すだけ茶化して満足できたのか、母はテレビの電源を入れた。
丁度ニュースを放送していて、そこにあの超音速旅客機の映像が映っていた。
私が食い入るように観ていると母が、解説し始めた。
「さっちゃんこれ知ってる? この飛行機、なんでも音速で飛ぶらしいわよ。これまでのジェット機の二倍の速さで飛んで、目的地まで大体半分くらいの時間で到着できるんだって」
「それ、学校でこのまえ聞いたよ。時速2100キロだって」
母の豆知識に対抗して、こっちも豆知識を突き付けてやった。
「そうなの!? これが飛ぶようになったら、島にいる日野君にもすぐ会いに行けるかも知れないね」
「もう、お母さんってそればっかりね」
テレビに映っている真っ白な機体は、無駄のない洗練されたフォルムで、このまえ描き写した物より格好よく見えた。
母は関心があるのか画面を食い入るように見ている。
「へー、今月お客さんを乗せてアメリカのロサンゼルスから日本まで飛ぶんだって。羽田に行ったら観れるみたいね」
「それでやたらと騒いでるのね。きっと日野君は実物見てみたいんだろうな」
「え? 日野君って飛行機好きだったっけ?」
「えっと、うん。こうゆうの好きみたい。男の子って感じだね」
危ない危ない。お母さんの知らない情報は、あまり口にしない方がいいわね。
ちょっと焦ってしまった私を気にすることなく、母はまた超音速機のニュースに集中しだした。
私も日野君がああいう形の膜を作って飛んでいるのだと思い、母と共にそのあともちょっと真剣に観てしまったのだった。
久しぶりに雨の降った木曜日。
私は一日のうちの半分は宿題をして、半分は漫画を描いていた。
「明日は雨じゃなければいいな」
窓の外に流れる水滴を眺めながら私はそう呟いたのだった。
翌日の朝、カーテンを開けた私の目に、明るい空が飛び込んできた。
この季節はとにかく夜が明けるのが早い。
窓を開けて下を覗き込むと、もう日野君はそこにいた。
私が手を振ると、彼も大きく手を振り返してきた。
朝からときめかされて、ちょっとだけ困ってしまう。
六階のこの部屋から周りを見渡し、人の気配がないことを確認した私は彼に手招きした。
「行っていいの?」
声に出さずに日野君は口をパクパク動かして見せた。
私は腕で大きなマルを作って彼に上がってきてと合図を送った。
フワリと浮き上がった彼は、開いた窓から朝の空気と共にカーテンを揺らしながら入って来た。
「おはよう」
そう言って日野君はいつもに増して楽しそうな笑顔を見せた。
こういう登場シーンは、私みたいな漫画好き女子にはたまらない。
空中で器用に靴を脱いで日野君はカーペットの上に降り立った。
「来てくれてありがとう」
「僕こそありがとう。また星野さんと一日一緒にいられるんだね」
ストレートすぎる。朝一番で告白まがいの感じはやめて欲しい。いや、やっぱりやめて欲しくないかも……。
「日野君、朝ごはんは?」
「食パンを一枚。途中で食べてきた」
「途中って、飛んでる最中に食べて来たってこと?」
「うん。そうだよ」
約時速300キロで食パンを齧りながら飛行してきたのか……。
ちょっと遅刻寸前の女子高生が、パンを齧りながら通学路を走っているという少女漫画のワンシーンが浮かんだ。
うーん。全然違うな。
私の想像できる範疇を超えて、途中朝パンしてきた少年に、また漫画に描きたいシーンが増えたのだった。
母が会社に出てから、二人で朝食を摂った。
彼は本日二枚目のトーストを頬張り、私の前でニコニコ笑っている。
どうしてなのだろう、少し焦げ目のついたただのトーストがとても美味しく感じられる。
きっと君が美味しそうに食べるからなんだよね。
二人きりでこうしている時間がずっと続いたらいい。心の内側にそんな想いを隠して私はトーストをゆっくりと味わった。
そして当たり前のように知里と合流し、またお姫様で三階の教室に行き、霞先輩にまたかと指さされ、漫画サークルでコツコツ漫画を描いた。
昨日とはうって変わって、湿度の高い晴天の夏の日。
なんとなくサークル活動に顔を出すのが当たり前になった彼。
そんな当たり前になってしまった彼は、一週間後の金曜日にはもうここにいないのだ。
私は本を読む日野君の横顔を時々見る。
このまえ、図書館で借りた飛行機の本。
私たちが机に向かっている間、彼は黙々と分厚い本に目をとおして、頁をめくっていた。
私の手元にはまだまだ未完成な原稿がある。
彼が行ってしまうまでには完成することの無い物語。
そして夏休みの終わるころ、この物語はきっとハッピーエンドになる。
現実には離れ離れになってしまう私たちだけれども、この物語の中だけは笑ってエンディングを迎える。
私はそんな、少年といつまでも一緒にいられるエンディングを求め、思い描いてしまうのだった。
学校を後にした私たちは、コンビニで買ったおにぎりを公園のベンチで食べた。
人見知り知里も、気兼ねなく話せる日野君を気に入っているみたいで、やや先輩風を吹かせながら、他愛ないおしゃべりをしていた。
「じゃあまたね」
そう言い残して帰って行った知里を私と日野君は見送った。
そして、私たちは図書館へと向かった。
あれだけ分厚い本だったのにも拘らず、日野君はサークル活動中に読み切っていた。
返却を終えて、しばらくのあいだ図書館で涼ませてもらい、私たちはまた夏の午後の太陽の下に出た。
緑道の木漏れ日の下で彼に車椅子を押してもらいながら、私は心地よさを感じ、同時に寂しさを募らせていた。
「今日で、最後なのかな……」
私がそう言うと、滑らかに進んでいた車椅子がわずかに揺らいだ。
「そうだね……明日はお姉ちゃんが家にいるから抜け出せないと思う……」
「そう……」
そして二人とも黙り込んでしまった。
無性に悲しかった。
出会ってから、私達にはたくさん思い出ができてしまった。
本当はいけないのに、彼は空を飛んで何度も会いに来てくれた。
嬉しくて、嬉しくて、そして余計に別れが辛くなった。
ふと、ハッピーエンドにすると決めたあの漫画のようになったらいいと思った。
私が泣いてしまえば、ここにいる現実の彼との物語はハッピーエンドにならない。
あの映画で彼がそう望んだように、私もハッピーエンドを彼にあげたい。
今ここで、彼に笑顔を見せてまた会おうねって、そんなヒロインを演じたいんだ。
「本当に楽しかった」
私は振り返って彼を見上げて精いっぱいの笑顔を見せた。
「僕もだよ」
逆光の木漏れ日の中、彼は私に白い歯を見せた。
「星野さんと一緒に過ごした夏のこと、僕は決して忘れないよ」
「私も。こんなに特別な夏は初めてだった。日野君のお陰だよ」
そして私は前を向いた。流れ出した涙を見られたくなかったからだった。
そして震えそうな声を必死で我慢しながら、私は思い描くヒロインを演じた。
「ありがとう。また会おうね」
「うん。きっとまた」
ザワザワと頭上の木々が風に揺れた。
こうして、今できる精いっぱいのハッピーエンドを私は演じきったのだった。




