第26話 図書館にて
高校生の夏休みには宿題がある。したがって漫画ばかり描いているわけにはいかないのだ。
昨日の夜、知里に誘われて、午前中は涼しい図書館で宿題をすることになった。
早出の母はもう会社に行ったようだ。
そろそろ起きて朝ごはんを食べないと。
起き掛けのぼんやりした頭で、車椅子に乗ってお手洗いに行ったあと、顔を洗って、用意してくれているであろう朝ごはんを食べにリビングへと移動した。
陽射しを入れようとカーテンを引いた時だった。
「おはよう。星野さん」
カーテンを開けていきなり、ベランダで隠れていた日野君と遭遇した。
「キャー!」
流石にこれには驚いた。
これが日野君じゃなかったら、悪質なストーカーだよ。
お母さんが仕事の日で良かった。見つかったら大騒ぎになるところだ。
慌てて掃き出しの窓から少年を招き入れると、外が相当暑かったのか、日野君は結構汗だくになっていた。
「駄目じゃない。こんなところから入って来ちゃ」
「でも、気付いてもらえないと思って」
「マンションの下にこの部屋の呼び鈴があるの。それを押すだけで分かるから」
「そうなの? じゃあ、これからはそうするね」
冷たい麦茶を飲ませて、エアコンの効いたリビングで、しばし日野君の火照った顔が元に戻るのを待った。
「今日も来ちゃったんだね」
「ごめんね。先週も来たのについ……」
ちょっと申し訳なさそうな日野君に、少しキュンとなった。
「また早朝からずっと待ってたの?」
「うん。今日は学校じゃないから、どうやって星野さんに気付いてもらおうか悩んじゃった」
「もし私のいない時だったら大変だよ。お姉さんには携帯番号教えといたけど、日野君にも教えとくね。今度から公衆電話からかけてくれたらいいからね」
私はメモに自分の携帯番号を書いて日野君に渡した。
「前の日とか、来る前でもいいから、連絡してから来てね」
「うん。そうする。今日は星野さんに会う前にベランダで気を失いそうになったし」
「駄目だよ。熱中症は恐ろしいんだよ。気を付けてね」
足しげく通ってくれて嬉しい反面、彼が無理をしていないかと心配になった。
きっとお腹を空かせているに違いない。私はトーストを焼いて、日野君に食べさせた。
コーヒーを飲んでようやくひと息ついた彼に、このまえ言っていた飛行が上手くいったのか訊いてみた。
「あの紙に描いたような形で上手く飛べたの?」
「うん。速度は上がったと思うよ。ここまであっという間だったから」
「ホント? 何分くらいだった?」
「時計がないからはっきり分からないけど、たぶん十分くらいかな。加速しきる前に着いちゃった感じだよ」
「そんなに早く? 信じられない……」
学校に行く半分程度の時間で千葉と東京を移動している。
彼にしてみれば、コーヒーの冷めないくらいの距離といった感覚だろう。
しかもきっとまだ慣れていなさそうだから、まだまだ速くなるに違いない。
ここから文京区までは直線距離でおおよそ40キロ。高度を上げるため垂直に飛び上がるロスと、加速減速のロスがあるにしても、瞬間的には300キロ以上のスピードが出ているに違いない。
もし加速を継続したとすればいったい何キロ出るのだろう。
いつか音速の壁を越えて飛ぶ日が来る。そんな気がした。
「すごいとは思うけど色々気を付けてね。誰かに見られたりとかもそうだけど、ビルにぶつかったりとか、鳥の群れに突っ込んじゃったりとか、空でも事故とかありそうだから」
「うん。気をつけるよ。ねえ星野さん、今日の予定は?」
「えっと、知里に誘われて、午前中は図書館で宿題しようかなーって」
「へえ、やっぱり星野さんは凄いや」
「え? 宿題するだけだよ」
「そうかもだけど、実は僕、まだ全然宿題に手を付けてなくって、ちゃんと計画を立ててる星野さんには敵わないなって」
「いやいや、私、本当に普通だから。それより、あの、退屈かも知れないけど日野君も一緒に来る?」
「うん。もちろん!」
そしてマンションの前で知里と合流した。
「なんだ、やっぱり日野君いるじゃない」
「おはようございます。先輩」
「おいっす。今日も爽やかだな、少年」
知里は驚いた様子もない。
もう頻繁に登場しすぎて、日野君がここにいるのは知里の中では見慣れた光景なのだろう。
フワリと車椅子が動き出し、知里が私の横に並ぶ。
「ねえ紗月、日野君がいるならどっか遊びに行ったら良かったね」
「宿題もやんないと駄目でしょ。漫画描いて、遊びに行ってばっかりだったら課題終わんないよ」
「はいはい。わかってますよ。ところで日野君は宿題とか無いわけ?」
痛い所を突かれた少年は分かり易く困った顔をした。
図書館で宿題をするというのはなかなかいいものだ。
広い机にゆったりしたスペース。とにかく静かで、空調も申し分ない。
ただし連れてきた少年が、うろうろしなければだが……。
「日野君、ちょっとちょっと」
声のトーンを落として、図書館の中を忙しく歩き回っている日野君を手招きした。
「駄目じゃない。こういう所ではゆったり構えるものなのよ」
「あ、そうなの? いやもう見たことない本がいっぱいで気になっちゃって」
「一、二冊見つくろって、ここで静かに読んで」
「うん。じゃあ選んでくるね」
そしてなんだか分厚い本を手にして戻ってきた。
席について読み始めた日野君は、さっきとはまるで別人のように集中し始めた。
そして時々休憩を入れながら、私たちは課題を一つ仕上げた。
知里は椅子の背もたれに寄りかかって「ウーン」と伸びをした。
「ふー、終わったー。予定通りだね」
「うん。まだあと二教科あるけど、それはまた今度ね」
「ねえ、さっきから日野君、何の本読んでるの?」
相当な集中力を見せていた少年は、知里の質問にようやく本を置いた。
「これ? 飛行機の本だよ」
そう言って見せてくれた表紙には「図解、航空力学の世界」と書かれていた。
「なに? めっちゃ重そうな本じゃない。そんなの読んでたの?」
「うん。面白かったよ。最先端の航空機が紹介されてた。この前の超音速機も載ってた」
「オーバーソニックのことね。日野君って飛行機マニアかなんかなの?」
「そうゆうわけじゃないけど、色々参考になるなーって」
「ふーん」
知里は最後は聞き流していたみたいだ。
日野君にしてみれば、空を飛ぶ技術というものはとても実用的で身近なものなのだろう。こういった書物を読み漁ることで、また彼の飛行能力が向上していくのかも知れない。
丁度お昼になったのでそろそろ図書館を出ようかと、机の上を片付け始めた私は、日野君がまだ名残惜しそうにしているのに気が付いた。
「もしかして、最後まで読みたいの?」
「うん。けっこう面白くって」
「じゃあ私が借りてあげる。ゆっくり家で読んだらいいよ」
「ホント? やった」
屈託のない笑顔で喜ぶ日野君を見て、またキュートだなあと私は萌えてしまったのだった。




