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第24話 飛行機の絵

 知里の部屋に来たのは久しぶりだ。

 バリアフリーではない一軒家は、私にとっては障害物の巣窟だ。

 屋外用の車椅子で乗り込むことはできないし、自力では家の中を移動できない。

 以前、知里が私を負ぶって二階の部屋に運んでくれた時、階段から二人で転げ落ちるのではないかと気が気じゃなかった。

 今日は日野君がいるので、またお姫様で安心して二階の部屋まで移動できたのだった。

 知里の部屋で落ち着いた私たちは、早速コンビニで買ってきたジュースを開けて乾杯した。


「いやー今日は暑かったねー。生き返るわー」

「知里は先に帰って涼んでたんでしょ。私たちにパシらせて」

「まあね。へへへへ」


 自分の部屋でいっそう寛いでいる感じの知里は、タブレットを起動させて何やら触り始めた。

 そして画面をよく見えるように、こちらに向けた。


「日野君、これに興味あるんでしょ」


 画面に映っていたのはあの超音速旅客機オーバーソニックだった。

 日野君は覗き込んでその画面をジーっと見つめる。


「他にもあるよ。これが正面から見たとこ、そんでこっちは横から、上からのはこれね」


 スイスイ送っていくその指の動きを、日野君は不思議そうに見つめる。

 その様子を見て私はもしやと想像した。


「日野君って、もしかしてタブレットとか知らなかったの?」

「すごいね。こんな便利なものがあるなんて」

「もしかしてスマホも知らなかった?」

「えっと、ずっと前にお姉ちゃんが東京から帰って来た時に持ってたから、見せてもらおうとしたんだ。でもダメだって言われて」

「どうして?」

「お姉ちゃんが言うには、都会の人は目の悪い人が多いから、この長細いのをじっと見て目を鍛えてるって言ってた。僕は視力がいいから見なくていいって」


 日野君の純真さに付け込んでやりたい放題ね。きっとお姉さんの影響でこんなに純朴に育ったのね。なんだか納得できたわ。


「こっちに来てみんなあれを見てるから、目の悪い人が多いんだなーって思ってた。目のトレーニング以外に色々便利な機能があったなんて」

「いや、どうしようかな、うん。まあ便利なわけよ」


 逆に目に良くないと教えてあげた方が良かったのだろうか? 余計なことを言うとあとで舞さんに睨まれそうだし……。

 日野君はタブレットのオーバーソニックの画像をジーっと見つめている。見ていて一向に飽きないようだ。


「ねえ、星野さん、知里先輩」

「え、なに? あらたまって」


 何やら真剣な眼差しで、顔を上げた日野君にちょっと緊張した。


「この飛行機の絵、描いてもらえませんか? 記憶しようと頑張ってるんだけど、ちょっと自信なくって」

「記憶しようとしてたんだ……」


 私と知里は彼の行動の不可解さに苦笑いするしかなかった。

 訳の分からぬまま、知里はドンと胸を叩いた。


「いいよ。まかせといて。ね、紗月、描いたげようよ」

「うんそうね。ちょっと時間かかってもいい?」

「もちろん。あの、お願いしといて悪いんですけど、できるだけ忠実にお願いできますか」

「わかったわ。正面と横と上からと後ろから。下からの画像は無いみたいだから四枚でいいわね」

「お願いします」


 私たちは少年のリクエストに応えて、ほぼ無言で一時間ほど集中した。

 そしてなかなかの出来栄えで絵は完成した。

 知里は絵の隅っこに自分のサインを描いて彼に渡した。


「さあ、持っていきたまえ。これは貸しにしとくよ」

「ありがとうございます。知里先輩」

「私も出来たよ。どうかな? こんな感じになったけど」

「星野さんもありがとう。もう完璧です」


 何だかものすごく欲しかった物を買ってもらえた子供みたいに、日野君は嬉しそうにしていた。

 その姿を見て私も満足感にしばし浸っていたが、このとき、彼がどんな意図をもってこの絵を手に入れようとしたのか、私は気付いていなかった。


 ボードゲームで盛り上がって知里の家を出たときには、夕方の六時を回っていた。

 夏の空はこの時間でも十分明るい。

 夕日が射し込む緑道を日野君に押してもらいながら、私たちはゆっくりと帰路についた。

 空を飛んでも目立たないくらい暗くなってくるまで、私たちは緑道沿いにある小さな池のほとりで時間を潰していた。

 少し涼しくなった時間帯。風の無い水面は美しい空の色を反射させて、小さな空をひと時のあいだ映し出す。

 私と日野君は数匹の亀が池の対岸でじっとしているのをしばらく眺めていた。

 そして私は他愛のないことを訊いてみた。

 

「島には亀はいる?」

「うん。いるよ。浜に時々ウミガメがいるんだ」

「そうかー。ウミガメかー、見てみたいなー」

「星野さんは亀が好きなの?」


 そう訊かれて、私は素直に頷けなかった。


「可愛いなって思うけど好きじゃないかも。ちょっと自分と比べちゃったりしてしまうの……」

「星野さんと亀を比べるって?」

「あそこにいる亀はああやって陸に上がって甲羅干しをしてる時は、のっそりしてるけど、水に入れば案外早く動くんだよ。知ってる? 蛙は後ろ脚を同時に動かすけど、カメは四本の足をバラバラに動かして泳ぐの。右前足をかいているときは左後ろ足って感じでね。そうすると案外真っすぐに泳げるんだ」


 私の話を日野君は黙って静かに聞いていた。


「でも、私は駄目だな。陸ではこの車椅子がないと何にも出来ないし、水の中でも亀みたいにうまく泳げない」


 そして私はもどかしさを吐き出すように大きく息を吐いた。


「悔しいな……」


 どうにもならないことを口にしてしまったあと、すぐに私は後悔した。

 明るく優しい彼に、こんな話を聞かせたりするつもりなど無かったのに……。


「ごめんね。変な愚痴聞かせて、日野君に車椅子を押してもらってたくさんお礼を言わないといけないのに」

「それは違うよ」


 日野君は私の手にそっと自分の手を被せ、空を映す水面に目を落としたままそう言った。


「僕が君を押していたんじゃない。君が僕の手を引いてくれたんだ」

「日野君……」

「君が手を引いてくれて、僕に新しい世界を見せてくれたんだ。だからありがとうを言うのは僕の方なんだ」


 気が付けば私は、日野君の手をしっかりと握りしめていた。


「こうして君とこの小さな美しい空を見ている今だって、僕にとって特別なんだよ」


 彼の言葉に涙が頬を伝って来た。水面を見つめる彼に気付かれないように、私は手を繋いでいない方の手でそっと涙を拭った。


「うん。私もだよ」


 彼はまた私の心の雲を吹き飛ばし、あの澄んだ空のように変えてしまった。


 美しい空を映していた池を後にし、私たちはもうあまり夕日も当たらない緑道を進んでいく。

 もうすぐ星が瞬き始める。すると彼はこの空に飛び立ってしまうのだ。

 また、寂しさがジワリと胸の中に広がってきた。


「星野さん」

「あ、はい」

「今日はありがとう。絵も描いてもらって」

「そんな、私こそだよ。日野君が来てくれたからサークルに顔も出せたし、知里の家にも遊びに行けた。それに何より……」


 私はほんの少し、気持ちを伝えることを躊躇ったあとに言葉を続けた。


「日野君が来てくれて嬉しかった……」


 日野君が押してくれているせいなのだろう。私はなんだかフワフワしていた。そのままあの日のように舞い上がってしまいそうだった。


「僕も嬉しかった。星野さんにまた会えて」


 振り返って見上げると、薄紫色の空を背景に、少年は穏やかに笑みを浮かべていた。

 そして気付いた。気持ちを隠せない素直な少年が、私と同じように別れを惜しんでいることを。


「あの、日野君、もし良かったら夕飯食べていかない? お母さんもきっと喜ぶし」

「ありがとう。でも、お母さんを心配させそうだし、出掛けていたことを知られたら、お姉ちゃんに怒られそうだから、日が落ちたら帰るよ」

「ごめんね。また遠い距離を移動させて」

「大丈夫だよ。僕にはこれがあるから」


 そう言って日野君は手に持ったファイルを振って見せた。


「今日私と知里が描いた絵だよね」

「うん。音速で飛ぶ飛行機の絵だ」

「それがあったらどうなるの?」

「実はね……」


 日野君は一度車椅子を停めて、私の前に回り込んだ。


「言ってなかったけど、僕は自分の周りの重力の膜をある程度変形させることができるんだ」

「えーと、それってどうゆうこと?」

「今日描いてもらった絵に限りなく近い形の膜で自分を覆えば、超音速機と同じことじゃないかって思ったんだ」

「すごい! 本当にそうかも!」

「恐らく、そのスピードを出せたら、これから星野さんにあっという間に会いに来れると思うんだ」


 ドキッ!


 今心臓から変な音がした。

 日野君は結構な頻度でこうして私の寿命を縮める。


「今日の帰り、早速この形をイメージして飛んでみるね。上手くいったらその……」


 日野君はそこまで言ってそわそわし始めた。


「どうしたの? 言いにくいこと?」

「その、星野さんの都合のいい日に、また会いに来ていいかな……」


 勿論いいに決まってるよ……。


 頭の中が沸騰したみたいにぼんやりしてきた。

 顔が熱くなって、もう日野君をまともに見れなくなってしまった。


「うん。いいよ……」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。


 特別な帰り道。少し口数の少なくなった二人はマンションの前に辿りついた。

 ようやく薄暗くなってきた空。

 彼はまたこの空へと飛んでいくのだ。


「星野さん、またね」

「うん。日野君もまたね」


 少年は絵の入ったクリアファイルを服の中に入れると、周りを見渡した。


「じゃあ行くよ」

「うん。今日はありがとう」

「こちらこそ。じゃあまたね」


 そして少年は音もなく舞い上がった。

 私はその姿を懸命に目で追いかけた。

 空を飛ぶ少年は余韻だけを残して、あっという間に星の瞬き始めた空へと消えてしまった。

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