第22話 図々しいメス猫
私は舞さんの申し出を受けることを決心した。
舞さんが能力者ということも、特別な治療を受けることも口外できないので、母には舞さんの病院でリハビリを受けたいと伝えたのだった。
以前リハビリを断念した娘が、また前に進もうとしていることを母は喜んでくれた。
全面的に応援するからと言ってくれた母に、嘘をついてしまったことを心の中で謝りながら、私は前に進みだした。
翌日、舞さんは私を時間通りに迎えに来た。
母が仕事の日、そこまでしてもらってはと遠慮する母を押し切って舞さんは私を迎えに来た。
病院まではかなりかかると思っていたけれど、東京湾アクアラインを使えば一時間程度で到着でき、その便利さに驚いた。
そして私はMRI検査を受けていた。
硬めのベッドに横たわった状態で、私はここにいる自分を滑稽に感じていた。
それにしても母に嘘をついてこんなことをしているなんて……。
リハビリに関しては母は応援してくれている。しかし得体の知れない手術まがいの治療を行うとなれば、そう簡単には納得してもらえないだろう。
ましてや、治療を受ける理由が、日野君と並んで歩きたいからなどと言えるはずがない。
今でも躊躇う自分がいる。でも、どうしても昨日言われた彼の隣を歩いている未来を諦めきれなかった。
きっと私はどうかしている。
脚がもし良くなったとしても、彼が振り向いてくれるかどうかなんてわからない。
遠く離れてしまう彼と、この先どうなってしまうのかもわからない。
それでも、何もしないでいるのは嫌だった。
この脚で立ち上がって、目線の高さをできるだけ合わせて、いつかあなたに好きだと言いたい。
そう、きっと私はどうかしているんだ。
またそう思ってしまった。
CTスキャンとMRI検査を終えて、私は病院を出た。
今日検査した内容をもとに、どのようにして治療を進めていくか決定したうえで後日連絡すると説明すると、舞さんは私をまた家まで送ってくれた。
帰りの車の中で私は気になっていたことを訊いてみた。
「あの、舞さん、治療費とかはその……」
「ああ、そのことね。勿論無料よ」
簡単にそう口にした横顔に、疑問しか浮かばなかった。
「どうして? 大がかりな検査もしたのに、おかしくないですか」
「ちょっと訳ありでね。実はあの病院と私たち島の医者は、ずっと昔から関係を築いてきた間柄なの。父と母も、もともとはあの病院の外科医だったのよ」
「そうなんですか」
「これも内緒にしておいてね。今まで他の病院で治療不可能と匙を投げられた政界の大物や著名人を治療してきた私たちの一族は、昔からあの病院で治療を行ってきたの。そうゆうわけであんまり表には出せないんだけど融通が利くのよ」
「そうだったんですか、どうりでスムーズだったわけだ」
「今回行う治療は病院で行う医療の枠を超えているわ。病院側も暗黙の了解で今回の治療に関して経過を見守っている立場なの。だから心配しないで。私に任せておいたらいいから」
「はい。よろしくお願いします」
そしてもう一つ、私には気になっていることがあった。
それは、こうして彼の目線の高さに近づこうと、もがいている自分を彼に知られたくないということだった。
「あの……」
「わかってるわよ。弟には黙っておくから心配しないで」
「すみません……」
こうして私は秘密を作ってしまった。
漫画サークルの活動日。知里は例によって私を誘ってきた。
部長と二人になるのが相当嫌なのか、それとも真面目に原稿を進めたいのか、とにかく迎えに行くからと押し切られた。
学校までは距離があるので、気を遣うなと言われても申し訳ない気持ちになってしまう。さらにこの炎天下ならなおさらだ。
車椅子を軽々と押してくれていた少年がここにいない淋しさを、また私は感じてしまっていた。
原稿を入れた鞄を持って、八月に入ってさらにやかましくなった蝉の声に、暑苦しさを感じつつ私はマンションを出た。
「あ……」
やかましく騒ぎ立てていた蝉の声が止んだ。
朝の光の中、私は大きく目を見開いていた。
ひざ丈の黒のパンツに、ネイビーのシャツ。ボタンを二つほど外した胸元から白いシャツが見えていた。
そこに立っていた少年は、分かり易い照れ笑いを浮かべながら私に小さく手を振った。
「日野君!」
車椅子のハンドリムを回して近づこうとすると、彼の方から駆け寄ってきた。
「へへへへ」
「どうしたの? 東京のお姉さんの家にいるはずじゃあ……」
「そうなんだけど、ちょっと抜け出して来たんだ。星野さん、今日学校だったよね」
「そんな理由で! え? それでどうやって来たの?」
「いや、それが……」
「飛んできたのね!」
「ごめん」
全く誤魔化しようのない分かり易さだ。しかし目立ちすぎるだろうと心配になった。
「まだ暗いうちの早朝に、相当な高度を飛行したから多分大丈夫だよ」
「え? ちょっと待って、暗いうちってそんな早くからここで待ってたの?」
「うん。蚊と闘いながら」
「ばか!」
嬉しさを隠しながら叱ってみた。でもきっと表情に表れてしまっているのだろう。
「その服、私が選んだやつだ」
「うん。どうかな……」
「良く似合ってるよ。とっても……」
日野君が後ろに回って私の車椅子に手をかけると、スウッと軽く前に進みだした。
それだけで胸がいっぱいになった。
「お腹空いたでしょ。もう、なにやってるのよ。途中のコンビニで何か買ってあげる」
「あ、今日は君に貰ったお財布を持ってきてるんだ。それとほら」
取り出して見せた財布にはナマケモノのストラップが付いていた。
「これでいつも星野さんとお揃いだね」
「うん。そうだね……」
日野君と緑道を進んでいくと、知里が手を振りながら前方から駆けてきた。
「さつきー。あれ? 日野君も一緒じゃない。お姉さんのとこって言ってなかった?」
「おはようございます先輩。今日は星野さんのサークル活動の日なんで、やって来ました」
「マジで? それだけのために?」
やや驚いた顔をしたあと、ニヤニヤしてまた勘繰りだした知里の視線に耐えられず、私はブンブン首を横に振った。
「そんなことないよね。私を送るだけじゃなくって、他に用事とかあったんだよね」
話を合わせて欲しかったのだが……。
「あ、そうだね。星野さんを三階まで運ばないと。今日も僕にまかせてね」
顔から火が出そうだった。
お姫様の姿で三階の教室に現れた私に、予想通り漫画サークル部長、霞恋は顔を真っ赤にして突っかかって来た。
「おかしいでしょ! 今日はエレベーターも使えるのを確認しましたよ。背負ってくるならまだしも、やっぱりお姫様だし、おまけに、いないはずの日野君は来てるし」
エレベーターは動いていたのか。
全く確認もせず、日野君に抱っこされて上がって来てしまった。
「なんというか、私も予想外でして、すみません」
「こっちこそ予想外だわ。それに彼、今日は私服じゃない。まあ、星野さんの体操着よりかは健全だけど……」
どうやら女子の体操着を男子が来ているのは、霞恋にとって相当な不健全であるようだ。
「まあいいわ。いきなりテンポを乱されたけど、始めましょう。二人ともちゃんと進めて来たんでしょうね」
お姫様で現れたことが余程気にくわなかったのか、日野君と私を物欲しげな目で見つつ、部長は一週間の成果を訊いてきた。
「あ、はい。けっこう進みました」
私はお姫様のまま、抱えていた鞄を開けようとした。
「ん、んん。星野さん。あなた、その状態でサークル活動をするつもりですか?」
「あ、すみません」
「それと日野君。そのままではいくら何でもですよ!」
「あ、僕は大丈夫ですよ。お気遣いなく」
「こっちが気になるっての!」
日野君は相変わらずだ。やはり人前でお姫様になるのに相当恥ずかしさを覚えつつ、こんなに早く再会できたことを嬉しく思うのだった。
描き進めていた原稿を見せると、部長はようやく機嫌を直してくれた。
「なかなかいいわね。思った以上に進んでいるし、よく描けてます。ただ二人で分担している割には石井さんの割合が少ないわね。それはどうしてなのかしら」
「ストーリーは基本的に私が主導していますので、キャラの設定が固まるまでは知里に待ってもらっているんです。今は背景をお願いしてますけど、おいおい同じ割合になる予定です」
「そう。分かりました。では今日はお昼までここで原稿を進めて下さい。私も自分の原稿を進めますが、何か聞きたいこととか有れば、その都度声を掛けてもらってかまいません。では作業にかかって下さい」
部長の合図で、知里は作業しやすいよう窓側の席の机をくっつけて準備をし始めた。日野君も知里を手伝う。
ここからなら広いグラウンドが見渡せて気持ちいい。ベストロケーションだった。
部長も最前列の窓側の席で鞄の中身を広げだす。
セッティングが終わった時に、部長がこちらの席までやって来た。
なんだかちょっとそわそわしている。
「日野君、ちょっといいかな……」
伏し目がちな視線からの、斜め45度の上目遣い。ひょっとするとまた……。
「あの、あのね、私の原稿、少し行き詰まってて、その……男の子のモデルに日野君に一肌脱いで欲しいっていうか……」
「服を脱ぐんですか?」
少年は言葉通りに受け取った。
「そ、そんな破廉恥な! で、でも、そういうのもいいかも……」
何だかおかしくなってる? いや、元々こうゆう人だったのかも知れない。
部長は両手をスカートの前で握って、肩をすくめて見せた。
このシーンも何度か見たことがある。ヒロインが、恋人に小さなお願いをするシーンだ。
また入っちゃってるじゃない!
これ以上静観していると彼が連れていかれそうなので、はっきりと言ってやった。
「部長、日野君はこちらの作品のモデルなんです。キャラが被るんで遠慮してください!」
「チッ!」
口惜しげに部長は退散していった。油断も隙も無いメス猫だと思った。




