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第20話 少年と姉

 母の帰宅に間に合わず、少し遅れて家に帰った私たちを、母はしょうがない子たちねと呆れてはいたものの、強く叱ったりはしなかった。

 日野君はババ様から送られてきたお礼の手紙を見せ、お世話になったお礼を言ったあと、旅費を引いた十万円を母に差し出した。

 母はお金を受け取らず、いつか島に行ったときに日野君の家で泊まらせてと、大人らしい気遣いを見せたのだった。

 お別れの晩餐をして、就寝前に日野君の部屋の前を通りがかると、小さな嗚咽が聴こえて来た。

 しばらくドアの前でノックをしようかどうか悩んだあと、私は自分の部屋へと戻り、彼と同じように涙を流したのだった。


 翌日の朝、千葉を出て東京都文京区にある姉の住所に向かった私たちは、到着してすぐ呆然としていた。

 呼び鈴を押して出て来たのは日野君のお姉さんではなかった。

 まるで見ず知らずの若い女の人は、今年の四月から入居したのだと話してくれた。そして前に住んでいた姉の所在は勿論知らなくて、一面識もないと告げられたのだった。

 感傷的になっていた私たちだったが、直面した現実にあたふたするしかなかった。

 この広い東京でお姉さんをどうやって探せばいいのか、全く見当もつかなかった。

 母は意気消沈してうなだれる日野君を、何とか元気づけようと必死だ。


「日野君、こういうことはよくあることよ。うん。気を強く持って」

「そうだよ。きっと何か手掛かりがここにあるって。あ、そうだ、管理人さんに聞いてみたら?」


 我ながらナイスアイデアが浮かんで、少年はようやく顔を上げた。


「そうだね。管理人さんなら何か知ってるかもしれないよね」


 そして、その管理人さんもまた四月から新しく入った人だった。

 何にも知らないし一面識もないと言われ、再び希望を失った日野君はさっきよりも落ち込んでしまった。


 取り敢えずアパートを出て、近くのカフェで作戦会議をすることにした。

 アイスカフェラテで少し気分を落ち着けてから、取り合えず思い当たることを順番に私は提案していった。


「ババ様に電話して確認してみる?」

「いや、アパートの住所しかババ様は知らないんだ。転居先は聞いていないんだ」

「勤め先の病院は知らないんだよね」

「うん。教えてもらってない」

「友達とかは? 島のお姉さんの友達なら、知ってるかもしれないよ」

「お姉ちゃんは友達がいなかったんだ。そもそも子供の少ない島だったから……」


 全く光が見えてこない。出口のないトンネルに突入してしまった感じが半端なかった。

 そしてずっと眉間にしわを寄せて、ソイラテを吸っていた母が口を開いた。


「大学は? 大学ならお姉さんの就職先がわかるんじゃない?」

「それよ! 流石年の功。ね、日野君、大学に行ってみようよ、通ってた大学は知ってるんでしょ」

「うん、勿論。この近くだよ」

「やった!」


 ようやく光が見えて三人で盛り上がった。


「それで、なんて大学なの? この近くって言ってたけど」

「東京大学だよ」

「は?」

「東京大学の医学部だって言ってたよ」

「東大じゃない!!」


 思わずカフェの店内で大声を上げてしまった。

 母はソイラテを吹き出してテーブルを汚していた。


 まさか東大の門をくぐるとは……。

 なんとなく変なオーラの漂う門をくぐり、通りがかる学生に声を掛けて大学の就職支援課の窓口までやって来た。

 事情を説明したとしても、個人情報は簡単には教えてくれないかもと思っていたが、日野君が学生証を持っていたおかげで、窓口の中年男性は意外と簡単に姉の就職先を教えてくれた。

 そしてまた意外と近くに姉が勤めていたことを知ったのだった。


 東京大学付属病院。

 日野君のお姉さんは何とも立派な大学病院に勤めていた。

 洗練された案内窓口で、やや気圧されつつ案内係の女性に尋ねると、すぐに内線で問い合わせてくれた。


「日野先生の弟さんがお見えなのですが……はい、はい分かりました」


 女性スタッフは笑みを浮かべながら待合の一角に案内してくれた。


「すぐにお見えになりますので、こちらでお待ちください」


 そう言い残して戻って行った女性の言ったとおり、カツカツと靴音を立てながら、小走りに白衣を着た髪の長い長身の女性が駆け込んできた。


「はやて!」

「おねえちゃん!」


 姉は走って来た勢いそのままに弟をその腕に抱きしめた。

 恥ずかしげもなくあふれ出した感情表現に、私と母は驚嘆した。


「お姉ちゃん、ちょっと、みんな見てるよ」

「はやてー、もう、あんたが悪いんだからね。なんて可愛いのー」


 姉は弟を抱擁したまま放そうとしない。そのまま少年の頬に自分の頬をスリスリとこすりつけて悦に浸っている。

 ようやく絡みつく姉をひっぺがし、日野君は乱れた服を直した。

 顔にキスマークがついている。この短時間で弟を溺愛しているのがよくよく分かった。


「やめてよお姉ちゃん、家の中じゃないんだから」


 家の中ではこんな感じなのか。姉と分かっていてもなんだかモヤモヤしてきた。

 姉はまだ興奮冷めやらぬ様で、もうそれは嬉しそうに日野君の手を取って目を輝かせている。


「いきなりのサプライズ登場で喜ばせてくれるじゃない。とうとうババ様を見限って私と暮らすって決めたのね」

「いや、そうゆうわけじゃなくって……」


 マイペースな日野君が手を焼くほどの姉の登場に、私と母は言葉を無くしていた。


 病院内のカフェでようやく落ち着いて姉と向かい合った私たちに、少年から事情を聞いた姉は姿勢を正して深々と頭を下げた。


「そうでしたか。わたくし、颯の姉の日野舞ひのまいと申します。弟の窮地を救って下さったお二人に、なんとお礼を言っていいか」

星野佐代子ほしのさよこと申します。それと娘の紗月です。あの、頭を上げて下さい。むしろ助けて頂いたのはこちらの方です。日野君には感謝しかありませんわ」


 母が同じようにお礼を言うと、姉は隣に座る弟に、意味ありげな視線を送った。

 恐らく能力のことを知られてしまったのかと無言で訊いているのだろう。

 少年は分かり易くへへへと苦笑いを浮かべた。


「弟をここまで送って下さり、お二人には感謝のしようがありません。ここからは姉のわたくしが保護者として弟の面倒を見ますのでご心配なく」


 向かい合う長い黒髪の姉は、日野君に似てすっきりとした美人だった。

 まつ毛の長い大きな瞳に、スッとした鼻、上品な口元は特に日野君と似ている印象だ。そして白衣の上からでもそれと分かるほど、胸が大きかった。

 顔立ちは日野君と似通ってはいるものの、なんだか明らかに雰囲気が違う。朗らかで明るい弟とは対照的で、なにを考えているのか読み取れない印象だった。

 先ほどロビーの待合で日野君に抱きついて大喜びしていた感じは消え去り、姉は少し冷たい目を私に向けていた。


「紗月さんと言いましたね。お見かけしたところ脚の調子が悪いようですが、どうなされたのですか」

「あ、はい。交通事故で、麻痺が残ってしまって」

「全く動かせない状態でしょうか」

「いえ、指先を少しは動かせます」

「リハビリは続けておられるのでしょうか」

「それが……あまり良くならないんで、今は休んでいます……」


 頑張っても前の様には歩けるわけでは無い。それが分かっていて苦しいリハビリを続けることを、私はずいぶん前に拒絶したのだった。


「なるほど、成果が出なかったというわけですね。もし良ければこの病院でリハビリをされてはいかがでしょうか、優秀な医師と、優秀な理学療法士がおりますよ」


 母は何も言わなかった。私が苦しんで歩くことを諦めた経緯を知っているからだった。

 私は目の前の視線を受け止めきれずに、膝の上で握ったこぶしをただ見つめていた。

 つかの間の沈黙を破ったのは少年の声だった。


「星野さんは、自分の思うままにしたらいいんだ」


 私はハッとして顔を上げた。

 日野君は真っすぐに私に目を向けていた。

 私はその瞳から目を離せなくなってしまった。


「誰かが星野さんのこれからを選ぶなんて、しなくていいんだ」

「日野君……」

「そうだよね。星野さん」

「うん……」


 そうして、とても短くて忘れられない話をしたあと、私たちは席を立ったのだった。


 お互いの連絡先を交換した後、研修医の姉とはカフェで別れ、病院前のロータリーで車に乗り込んだ私は、少年に最後のお別れを告げようとしていた。

 開けた窓越しに声を掛けようとした私に、先に少年が口を開いた。


「星野さん、お母さん、本当にお世話になりました。お二人のご親切は決して忘れません」


 母は感無量の様で少し声を震わせてこたえる。


「いいのよ、日野君。元気でね。また手紙を頂戴ね」

「はい。必ず書きます」


 そして日野君は、とても寂しそうに私に笑いかけた。


「星野さん。君にはお世話になっただけじゃなく、素敵な思い出をたくさんもらった。本当にありがとう」

「いいの。わたしも日野君にいっぱいもらった。本当にありがとう」

「また会おうね」

「うん。きっと……きっとだよ」


 発進した車に少年は手を振り続けた。

 私も彼が見えなくなるまで手を振り続けた。

 手を振り続ける彼が見えなくなって、我慢していた涙を私はたくさん流した。

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