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第2話 空を飛ぶ少年

 バシャン。


 目の前で遊んでいた男の子が桟橋の縁から落下していったあと、すぐに大きな水音が私の耳に届いた。

 私は慌てて車椅子を桟橋ギリギリまで寄せて、男の子の落ちた水面を覗き込んだ。

 空の青を映す透明度の高い湖面に、不自然な波紋をいくつも作って、男の子は必死に手を伸ばして藻掻いていた。


「誰か!」


 私の叫びは届いていたのか分からない。

 分かっているのは、今ここで私しか彼を助けることができないということだけだった。

 私は車椅子の車輪をロックすると、肘掛けに手をかけた。

 今から自分が何をしようとしているのか、それがどんなに無謀なことなのか、その時の私の頭の中にはなかった。

 ただ助けを求める手に、手を伸ばさずにはいられなかった。

 両腕に力を込めて、体を起こしていく。

 殆ど感覚のない脚は、腕だけで立ち上がっていく上半身にダラリと付いてくる。

 前のめりになった私の体が、桟橋の縁からはみ出していく。

 覗き込んだ水面まで、約二メートルほど。波立つ湖面に滑稽に歪んだ自分の姿が映っていた。

 そして次の瞬間、私は水の中にいた。


 ゴボゴボゴボ……。


 大きな泡に混ざって細かな気泡が、シューッという音と共に、一斉に湖面へと浮上していく。

 夏なのに、目の覚めるような水の冷たさだった。

 水中に嵌った体を、腕をかいて浮上させて、私は大きく息を吸い込んだ。

 脚が動かなくとも、何とか浮いていられる。男の子が私に掴まることが出来たら、きっと少しの間なら浮き袋の代わりになれる。

 脚が動かなくなる前は、スイミングに通っていた。

 友達よりも泳ぎは上手い方だと子供ながらに思っていた。

 ほんの少し近づいて手を伸ばせば、男の子に手が届く。私は夢中で水をかき、手足をばたつかせていた男の子の腕を掴んだ。

 藻掻いていた男の子は、幼児とは思えない程の力で、必死にしがみ付いてきた。

 死に直面した動物が本能的に発揮するという、いわゆる火事場の馬鹿力が、このとき幼い体を衝き動かしていたのは間違いない。

 空気を求めて怪力を発揮した男の子は、必死で浮き上がろうとする私の体を水中に引きずりこんでいった。

 私は纏わりつく男の子に抗いながら、必死に手を動かして、なんとか水面から顔を出した。

 執拗に絡みついてくる男の子に、またすぐに水中に引きずり込まれてしまったが、そのとき視界に入った桟橋の柱に私は希望を見いだした。

 あそこに手が届けば何とかなる。たった五メートルほどの距離だった。

 胴にしがみついてくる男の子をそのままにして、私は必死で腕をかいた。

 苦しい。息をしようと喘いだ口の中に、空気ではなく湖水が入り込んできた。

 むせ返りながらも、恐怖に憑りつかれた私は必死に腕をかいた。

 もう少し。

 そう思った時、無我夢中でかき続けていた腕が、強い力で掴まれた。

 しがみついてくる男の子の腕が私の片腕に絡まり、唯一の推進力を失った二人の体は水中に引き戻されていった。

 あどけなく桟橋で遊んでいた幼児が、まるで怪物か何かに感じられた。

 死の恐怖と直面した私は、叫び声を上げることも出来ずに、ただ死にたくないと強く願った。

 透明度の高い湖水の中、天に向かって伸ばした手の先に、青い空が広がっている。

 一瞬だけ、その青の中に小さな白いものが見えた気がした。


 鳥……。


 恐怖で必死にしがみついてくる男の子の腕が、浮上しようともがく私の体をさらに水底へと引きずり込もうとしていた。

 苦しい……。

 少しずつ、目の前が暗くなってきた時だった。

 遠ざかる水面から、勢いよく何かが飛び込んできた。

 真っ白な気泡が私の視界を覆い尽くす。

 誰かが私を背後から抱きしめる感触。

 そのあと突然視界が開け、呼吸ができるようになった。


「ゴホ、ゴホゴホ」


 思い切りむせ返りながら、私は涙目で今どうなっているのかを確認しようとした。

 さっきの男の子が私の腰にしがみついて大泣きしている。そして私は背後から誰かにきつく抱きしめられていた。

 助かった。

 そう思ったのは一瞬だった。

 言いようの無い浮遊感。

 少し冷静さを取り戻した私は、あり得ない光景を見たのだった。

 足元には何もなかった。

 そして、ちょっと足元がすくみそうなほどの高さから桟橋を見下ろしていた。

 信じられないことだが、私は湖面からずっと離れた空中にいた。

 愛用の車椅子が、まるでミニチュアか何かのようにぽつんと眼下にあった。

 叫んでもいいような場面ではあったが、あまりに驚嘆しすぎて叫び声すら出てこなかった。

 うろたえきっている私の耳に、背後から腕を回している誰かの声が聞こえてきた。


「今、降ろしてあげるね」


 そしてそのままフワリと私たちは桟橋の上に降り立った。

 まるでそうなるのが自然であるかのように、着地した感触はなんだか心地よさすら覚えた。


「濡れちゃったね」


 ずぶ濡れの私たちを降ろして、そう言ったのは、同い年くらいの少年だった。

 少年は白いシャツを体に張り付かせて、短い黒髪から雫を滴らせながらニコリと笑みを浮かべた。


「じゃあね」


 そう言ったあと、少年は音もなく真っ直ぐに高い空へと飛んでいった。


「うそ……」


 思わずそう呟いた私に、まだ嗚咽したままの男の子がしがみついていた。

 空に舞い上がった少年は、まるで白昼夢のようにあっという間に視界から消えた。


「なんだったんだろう……」


 しばらく空を仰ぎ見ていた私は、さっき少年が立っていた場所に目を戻した。そこには確かに少年がそこにいたという証があった。

 桟橋はそこだけしっかりと濡れて、色が変わっていたのだった。

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