第19話 二人で海へ
まだ涼しい早朝の時間帯。
日野君に誘われて、また少し散歩に出た。
思い返してみると、日野君が来てから、毎日こうして彼と外に出かけている。
毎年のように夏休みの間は、冷房の効いている部屋で引きこもっている私が、今年の夏に限っては、彼とこんな感じで夏のひと時を肌で感じ、愉しんでいた。
まだ蝉の声もまばらな早朝の緑道を、私の車椅子は滑らかに進んでいく。
時折すれ違う、散歩をしているお年寄りと軽く挨拶を交わしつつ、以前一緒にアイスを食べた公園までやって来た。
ベンチに並ぶように車椅子を停めると、ようやく少年はひと息ついた。
「この時間帯だとまだ涼しいね」
「うん。連れてきてくれてありがとう」
額の汗を拭った日野君の横顔を私はじっと見つめてしまっていた。
昨日、彼にキスされると勝手に思い違いした私は、あの時、躊躇いながらもそうされたいと心の中で彼を求めた。
彼と釣り合うはずがないのに、恋をしないと決めていたのに、どうしようもなく彼に触れたいと願ってしまう自分が抑えられない。
こんな私を知ったら彼はどう思うだろう。
私の見つめる彼の横顔は、いつもと変わらぬ感じで公園の木々に向けられている。
「なんだかキラキラしてるね」
少年は不意にそう口にした。
昨晩降った雨のせいだろう。彼の言ったとおり、早朝の陽射しに照らされた緑が瑞々しい。
並んで座る彼と私は、そんな公園の木々に目を向ける。
四月に母と来た時に見事に咲き誇っていた桜の木は、いまは青々とした葉を茂らせている。
春になったら一緒にあの桜の花を見たいな。
ふと、そう思った。
「日野君は桜の花を見たことある?」
「うん。島にあるよ。学校に大きな桜が一本」
「今そこにある樹も桜だよ。ここの公園の樹って殆ど桜ばっかり」
「あ、本当だ。てことは春になったら凄いことになるってことだよね」
「きれいだよー。私、お母さんと毎年来るんだ」
「いいなー、星野さんと見てみたいなー」
日野君はいつもの無邪気さを全開にして、羨ましそうにそう口にした。
私はその横顔に少しのあいだ惹きつけられる。
春になれば、当たり前のように花を咲かせるこの場所に、当たり前のようにこの少年の姿はないのだろう。
また胸が苦しくなってきて、大きく深呼吸をしてみた。
「そうだね。また一緒に見られたらいいね」
願いを言葉にしてみると、さらに胸が苦しくなった。
少年の横顔を見上げると、視界いっぱいに広がる春の景色を想像するかのように、今は緑の葉で覆われた樹々を見つめていた。
「もうすぐ行っちゃうんだね……」
「うん。星野さんとお母さんには、いっぱいお世話になっちゃったね」
「そんなのいいの。そんなの……」
それ以上言葉が出てこない。
明日にでもいなくなってしまう彼と、もっとたくさん話したいのに。
黙り込んでしまった私を、彼は身をかがめて覗き込む。
「星野さん?」
「うん、何でもないよ……」
「僕が帰ったら、君にいっぱい手紙を書くよ。あんまし字は綺麗じゃないんだけど、とにかく書くよ」
「じゃあ、私はイラスト付きで手紙を書くね」
「あ、じゃあ僕も星野さんの真似してイラストも描いてみようかな」
「ホント? 日野君の絵を見せてもらえるの? なんだか楽しみ」
「いや、やっぱりやめとこう、笑われそうだし」
「駄目。一度言ったことを取り消さないで。絶対描いてね」
「うん。わかった」
少しずつ、どこからか蝉の声が増えてきだした。
さっきより陽射しのきつくなった緑道を、日陰を探しながら私たちは引き返し始めた。
マンションに戻った私は、毎日そうしているように、一階にあるポストを確認した。
何枚かのチラシと共に、そこには少し厚めのしっかりした茶封筒が投函されていた。
手に取って、その送り主を確認した私は小さく唇を噛んだ。
日野フサエ。遠い離島か送られた封筒に間違いなかった。
私はとうとうその時が来てしまったことを知ったのだった。
部屋に戻って中身を確認すると、本来なら普通郵便で送ってはいけない現金が二十万と、二枚の便せんが出て来た。
便せんには綺麗な筆跡で姉の東京での住所が書かれており、またババ様の携帯番号も書かれてあった。
そしてもう一枚には、私たち母娘に対する感謝がしたためられてあった。
私は母の仕事先に電話を入れて、手紙が届いたことを連絡しておいた。
母は明日都合をつけて彼を送って行くと言ってくれた。
電話を終えた私は、そのまま目を閉じてうつむくことしか出来なかった。
「星野さん」
声を掛けてくれた少年に今の顔を見せたくなくて、私はうつむいたまま返事をした。
「うん」
そして不意にあのフワリとした無重力感に包まれた。
顔を上げた私に少年の明るい笑顔が向けられていた。
「行こう」
少年はそう言って私を軽く抱えたのだった。
外出用の車椅子に乗り換えて、私は駅のプラットホームにいた。
海に行こう。そう彼は言った。
私は頷いた。
何の躊躇いもなく、彼の言葉のままに、自分の心のままに、私はそうすることを選んだ。
慣れない町で、まともに電車にも乗れない少年と、一人ではどこへも行けない少女。そんな二人が臆することなく、心のままに一歩を踏み出した。
そして夏の日差しをはね返す快適な電車に乗って、私たちは冒険をした。
途中、コンビニで買っておいたお弁当を食べて、私たちはお互いのことを語り合った。
好きな食べ物、苦手なもの、犬と猫どっちが好きかなど、他愛のない情報交換をしているうちに、スマホで見当をつけた目的地に着いた。
そして半島の小さな駅に降り立った私たちは、そこから海を目指した。
人目に付かないよう誰もいない森の間を抜けて、私たちは普通の人が踏み込めないささやかな砂浜に降り立った。
フワリと音もなく着陸した車椅子から、真っ青な青い空を映す、澄み切った海を私は目にした。
「きれい……」
「うん。綺麗だね」
しばらく二人で同じ海の青さを眺めたあと、少年が口を開いた。
「足を浸けてみない?」
「うん。浸けてみたい」
少年はまず自分が裸足になってから、私の靴と靴下を脱がせて、昨日のように私の手を取った。
「昨日と同じだよ」
「うん」
彼の両手に私は指を絡め、彼の足の甲に私の足裏が乗っている感じになった。
「いくよ」
私たちは空を舞った。
スウッと十メートルほど舞い上がってそのまま海の上まで滑るように移動する。
眼下に見下ろす海の透明度に、思わず声を上げた。
「すごい!」
そしてゆっくりと降下し、私たちの脚は膝下くらいまで水に浸かった。
少年は器用に服が濡れないようにコントロールしている。
「冷たくて、きもちいい!」
「うん。ほんとだ!」
少年は私の方が陰になるよう強い陽射しに気遣う。
さりげない優しさに胸が高鳴るのを私は抑えられなかった。
「手で触ってみる?」
「え? 出来るのかな」
「出来るよ」
少年は一度体を水面に浮上させて、そのまま体を水面と平行になるよう調整した。
「片手を放していいよ。大丈夫。僕がしっかり支えておくから」
「うん」
少年は空いた手で私の腰に手を回した。
「きゃっ」
「ごめん。でも我慢してね」
「うん……」
さっきよりも密着してしてる。ちょっと耐えられない近さだ。
僅かに体の間に空間はあるものの、ほぼ密着していると言っても過言ではない。
「さあ手を伸ばして」
言われるがまま手を伸ばすと、冷たい水に手首まで浸かった。
「このまま進むよ」
冷たい水に手を浸したまま、少年はゆっくりと水面と水平に進み始めた。
波があるので時々しぶきが跳ね上がる。
しかし不思議なことに服が濡れた感じがない。これが彼が言っていた重力の膜なのだろう。
「星野さん、少し飛ばすよ。手を僕の腰に回して」
「こ、こう?」
「そう。いい感じだよ。じゃあいくよ」
さらに彼に密着した私は、その加速を体感した。
水面ぎりぎりを私たちは飛行している。とんでもない開放感が私を満たしていた。
少年と同じ世界をいま私は感じているんだ。
興奮と感動だけが、いま私を包んでいた。
「もっと高く飛んでいい?」
「うん! もっと、もっと高く飛びたい!」
「よーし!」
こうして私たちは空を飛んだ。
彼の住む世界は高く、青く、果てしなかった。
そんな世界に連れて行ってくれた彼に、私は心から感謝したのだった。
砂浜で寝そべったり、波打ち際で貝殻を探したり、時間はあっという間に流れた。
最後にもう一度だけ、少し日の傾いてきた美しい海を見ようと、少年は私を空に連れ出してくれた。
真っすぐに高く、私たちは地球の丸さを感じられる高度まで舞い上がった。
「とっても綺麗」
「ほんとだね」
私は彼以外誰も聞くことのない、この広くて高い空で少年に想いを伝えた。
「私、日野君とこうして空を飛んだこと、一生忘れない」
「僕も星野さんと空を飛べたこと、一生忘れないよ」
少年はこの空のような笑顔をみせた。
そして私も、きっと彼に負けないくらいの笑顔を浮かべたのだった。




