第12話 少年と動物園
少年が家に来て四日目。
母は仕事が一段落したのか、有休をとって私と少年を家から連れ出してくれた。
ちょっと子供っぽいかもと言いながら、母が選んだのは動物園だった。
自然豊かではあろう少年の住んでいる島では、海に住む生き物を見る機会は多いに違いない。動物園なら、彼の目にしたことの無い生き物がたくさんいて、それなりに楽しめるだろうと考えてくれたのだった。
勿論私もその意見に賛成した。日常では目にすることの無い珍しい動物を彼に見せてあげたいのと、それを見て彼がどういった反応をするのか、私も楽しみだった。
そして、動物園へとやって来た私たちは、早速キリンの檻の前で餌やり体験をしていた。
長い首に見合った長い舌を伸ばして、キリンは私の手から器用に人参を細く切ったものを口に運んでいた。
「こんな感じであげるんだよ」
私が手本を見せたあと、少年は興奮気味に人参を手に取った。
明らかにビビっている。
その姿が可笑しくって、母と私は笑いを必死でかみ殺す。
キリンと同じように口を開けたまま、少年は何とか餌やりを成功させた。
「ふー、意外と友好的な動物だった」
一仕事終えたみたいに額の汗を腕で拭きながら、安堵の吐息をついた少年に、また可笑しさが込み上げてきた。
「初めてだったら仕方ないよ。上手くできた方だよ」
「そう? 他の動物にもこんな感じであげられるのかな」
「動物にもよるけど、あげられるよ。気に入った?」
「うん。とっても。星野さんといるとドキドキしっぱなしだよ」
思春期の少女にそんな感じでサラッと言わないで。
彼のことを知らなければ完全に誤解してしまうひと言を言われて、分かっていながらドキドキしてしまった。
特に母の前ではやめて欲しかった。その言い方はきっと母なら深い意味合いで受け止めるに違いない……。
そして車椅子の後ろにいる母を振り返ると、まさにそんな顔をしていた。
娘をおかずに楽しいことを想像している。察するに、大半は自分が楽しむためにここに来た感じだ。
「日野君、餌やりをしたら毎回石鹸で手を洗うんだよ」
「うん。手に唾が付くからだね」
「それもあるけど、動物から病気をもらわないようにと、他の動物をその手で触って病気を感染させないためだよ」
「そうゆうことか。気をつけます」
それから象にも餌をやり、小動物たちと触れ合った。
日野君は私の真似をして動物たちと触れ合い、終始楽しそうに笑っていた。
大型の肉食獣コーナーに到着すると、母は飲み物を買いに行くと言って、そそくさと私たちを置いて行ってしまった。
母はなんとなくというより、むしろ露骨に二人きりにしてやろうと狙っている。
老婆心から娘を援護しているつもりかも知れないが、そういった気遣いを、もし日野君が知ったらきっとギクシャクするに違いない。
いや、きっと日野君なら気付かないだろう。つまり気にしているのは自分だけだということだ。
彼を意識していることを認めてしまった私は、気を向ける方向を変えようと檻の向こうの猛獣に目を向けた。
そして見事な模様の虎を眺めていた時に、ふと気付いたことがあった。
「ねえ、日野君、あの虎、ずっと日野君のこと見てない?」
「えっ?」
「ほら、あそこの一番立派な模様の虎だよ。なんだか日野君ばっかり見てる気がするの」
冗談ではなく、本当に虎は日野君を凝視しているようだった。
野生動物が、空を飛べる彼のことを、特別な存在であると嗅ぎ分けたのかも知れない。
私が指さすと、虎の視線に気付いた日野君はゴクリと生唾を呑み込んだ。
ちょっと怖がっている感じが可愛くて、ほんの少しからかってみたくなった私は、悪戯っぽく日野君に聞いてみた。
「ねえ、日野君、もしあの虎が柵を超えて飛び掛かってきたらどうする?」
「えっ! そんなことってあるの?」
「さー、あるかも知れないよ」
日野君は虎から目を離さず、私の傍にスッと寄って来た。
「大丈夫だよ。もしそうなっても君を抱いて空に逃げるから」
ドキッ!
今、心臓が変な音を立てた。
彼をからかおうとした私は見事に手痛いしっぺ返しを食らって、撃沈したのだった。
少年は初めて目にする動物たちに、目を輝かせていた。
ここに来てよかった。
私は素直にそう思った。
日野君が着ている動物のプリントが入った白いTシャツが、この園内ではしっくり来ていて、ちょっと可愛くて素敵だった。
木陰で母の手作り弁当を広げて昼食をとっているときに、私は日野君のシャツの絵柄について聞いてみた。
「日野君のシャツのプリントって何の動物かな」
「これ? このシャツお姉ちゃんに貰ったんだけど、確かラーテルって言ってたな。なんでも最強の動物なんだって」
「ラーテル……聞き覚えのあるような無いような……」
私がおにぎりを手に悩んでいると、母がちょっとした豆知識を披露してくれた。
「さっちゃん、ラーテルっていうのはね、イタチに似た動物で蜂蜜を好んで食べるらしいわよ」
「へー、スイーツ好きってこと?」
「まあ、雑食らしいけど、気性が荒いんだって。ライオンとかハイエナにも向かっていくんだって」
「ホントに? でも流石に闘ったら負けちゃいそうだけど」
「それがそうでもないのよ。ラーテルは背中の皮が硬くって、牙が通らないんだって。ラーテルに喧嘩を売って鋭い爪で返り討ちにあったライオンもいるんだって」
「すごい、最強じゃん」
「そうなのよ。毒蛇なんて頭から食べちゃうって話よ」
ラーテルに関しての理解は深まったが、そのラーテルのTシャツを弟に着せる姉のセンスを想像してしまった。
「きっとお姉さん、日野君にラーテルのように逞しくなるようにって、そのTシャツにメッセージを込めたんだよ」
「どうかな、まあお姉ちゃんは気丈な人だったから。よく小さいときに言われたんだ。喧嘩したらどんなに汚い手を使ってでも必ず勝てって」
「そ、そうなんだ……」
「でも喧嘩したことってあんまりなくって、なんてったって小さな島だから」
ハハハと朗らかに笑う少年と姉のギャップは相当大きそうだ。
いったい、この少年の姉とはどのような人物なのだろうか。
どうしてもお姉さんに会ってみたくなった。
お弁当を食べ終えてお茶を飲んでいると、少年の口もとにご飯粒が付いているのに気が付いた。
「あ、日野君、口もと」
「え?」
「ご飯粒が付いてるよ」
「えっとどこかな」
何だか指摘した反対側を探している。まどろっこしくなって私は少年の顔に手を伸ばした。
「これだよ。ほら」
「ありがとう。じゃあいただきます」
指先でつまんだご飯粒に、躊躇いもなく少年は口をつけた。
指先に彼の唇の感触。
私は咄嗟に手を引っ込めた。
「あらあら」
母が美味しいものにありついたような顔で私を見ている。
それから私は、しばらく顔を上げられなくなってしまったのだった。




