第1話 小さな世界
世界は広い
私の生きる世界はとてもちっぽけだけれど
そんなちっぽけな私の世界に現れたあの人は
この地上の束縛から解放されて空を飛んでいた
ただただ青い空に真っ白なシャツをたなびかせて
紗月の日記より抜粋。
車で長い距離を移動したあと、たいがいの人は車から降りて体をグーッと伸ばすだろう。
脚に力を入れて背筋を伸ばし、開放的に腕を高く上げるのだ。
私の場合はその点勝手が違う。
助手席のドアを開けると、そこにはいつもお世話になっている車椅子がある。
いつも母は運転を終えたあと、車を降りて後部ハッチを開けて、こうして私の愛車を用意してくれる。
電動でスライドする助手席から、私はもはや相棒ともいえる車椅子に乗り換える。脚の不自由な私が乗降しやすいように作られている特別使用車は、慣れると案外容易に車椅子へと移れるのだ。
「疲れたでしょ」
運転していたのは母で、私はただ景色を眺めていただけ。
それでも母は、いつもどおりの気遣いを私にしてくれる。
あまり口には出さないけれど、母にはものすごく感謝している。
私は自分のお尻にぴったりフィットした車椅子に座って、ウーンと伸びをした。
「とうとう来たんだね」
空を見上げると青い空。
数えるほどしか雲のない高く澄んだ空には、余計なものは一切存在しない。
まだ夏休みに入って二日目。
受験が終わって高校生になったら行こうねと、母が言っていた北海道。
本当に計画を立てて有言実行してくれた。
昨日の深夜にフェリーに乗って丸一日退屈な船上で過ごしたあと、日の落ちた頃に苫小牧に到着した。
そのまま苫小牧で一泊し、そして今朝、ホテルを出てから高速道路で一時間半もかけて母が私を連れてきてくれたのは、2008年に偉い人たちがサミットで集ったという洞爺湖。
主に気候変動などの環境問題を取り上げて、二酸化炭素の排出について話し合われたちょっと有名な場所だ。
また、北海道内の観光地としても有名で、湖の中央にある中島を臨む湖畔からの眺望は、筆舌に尽くしがたい美しさだ。そして湖畔で行われる恒例のロングラン花火大会は、四月下旬から約半年間も毎夜行われ、訪れる人たちを愉しませていた。
車椅子を押しながら、母は朝早く起きたせいか、目尻に涙を浮かべて大きな欠伸を一つした。
「さっちゃん、申し訳ないんだけど、これからまた船に乗る予定なのよ」
母は私をさっちゃんと呼ぶ。人前ではきちんと名前で呼ぶこともあるが、小さい頃から変わらないその呼び方は、娘が大きくなっても親離れするのを歓迎していないからだとも受け取れる。
「え? 昨日一日中乗ってたのに?」
「観光船よ。ここまで来たら乗っとかないとね」
「帰りもまたあのフェリーでしょ。三回もってことになるよね」
「あ、ホントね。よく考えたらそうだった」
四十代前半の若々しくていつも元気な母。だけれども、このところずっと忙しかったみたいで、少し痩せた気がする。
母は何も言わないけれど、この旅行のために仕事を無理したのだろうと想像できた。
母と娘の二人旅。
開放的な二人だけの家族旅行は、私にとって特別だった。
ここで私のことを自己紹介しておこう。
私の名前は星野紗月。千葉の県立高校に今年上がったばかりの一年生だ。
小学生の時の事故で脚に麻痺が残り、リハビリの甲斐なく今も車椅子の生活をしている。
他のクラスメートのように運動は出来ないけれど、そこはあまり考えないようにしている。
努力して何かを成し遂げるのは、可能性があるから出来ることだ。
可能性のないことに私は努力をしたりしない。
自分の手が届くものかそうでないのかを、もうずいぶん前から分けて考えるようにしていた。
今はグランドを駆け回るクラスメートに目を向けず、好きな絵を描いて、美大に進む道を夢想している。
恋愛はしない。
恋はお互いにフェアでなければいけないものだ。
だから恋人が私に憐憫を抱くのはフェアではないのだ。
そもそも私なんかを本気で好きになってくれる男の子などいないだろう。
そして私も好きにならない。
そう思っていた。
あの青い空から、君が降ってくるまでは。
遊覧船の待合の席で、車椅子の私の隣に座る母は、今から乗る船は車椅子のままでも乗れるように配慮されているのだと説明してくれた。
どこに行くにも先に下調べをしている母について回っていれば、とにかく安心だ。
多少娘を甘やかしすぎる傾向がある母だが、肯定的に捉えて私もちょっと甘えていた。
いつか自分が自立した時に恩を返そう。
気の長い遠い未来に誓いを立てて、学生の間は甘えてやると私はタカを括っていた。
待合で遊覧船を待っている間、母は少し電話をしてくると席を立った。
朝一番のクルーズに参加するお客さんの数は少ない。
私たち親子以外は老父婦が二組と、若いカップルが一組。そして家族連れが一組といった寂しい人数だった。
夏休みに入ったとは言っても、試験休みに入ってすぐの平日だ。
まだ小中学生は学校に行っている。だからこそこうして静かな環境で観光できるわけだ。
母を待っている間、外の美味しい空気を吸おうと、車椅子のハンドリムに手をかけて待合を出ると、桟橋の先端に人影いるのに気付いた。
幼稚園児くらいの男の子だ。
魚でもいるのだろうか、男の子はさっきから桟橋のヘリに沿って水面を覗きながら歩いている。
私はその危なっかしさに緊張を覚えながら、しばらく男の子を眺めていた。
こういったことは親がちゃんと注意してやらないといけない。
さっき待合で見かけたその親らしき人は、二人とも席に座ったまま、スマホの画面に集中していた。
最近よく見かける光景だが、水のある場所の近くで目を離すなどあり得ない。
他人でも気付いてしまったら放ってはおけない。見ているだけだと心臓に悪いので、ちょっとしたお節介をしておこうと思った。
私は車椅子のハンドリムに手をかけ、男の子の遊んでいる桟橋の先端に車椅子を進めた。
流石にスマホに夢中な親二人に向かって、堂々と注意する勇気を持ち合わせていなかったのもある。
そんなところで遊んでると危ないよ。
それだけ言っておこうと思っただけだった。
車椅子は桟橋の板をギイギイ言わせながら、男の子のいる桟橋の先端に近づいた。
あまり見かけないであろう車椅子の私に、おおよそ4歳くらいの男の子は、水面から目を移して興味深げな視線を向けてきた。
車椅子が珍しいからか、それとも、もしかすると遊んでもらえるのかもと思ったのかも知れない。
「ねえ、ボク、そんなところで遊んでたら危ないよ」
私は用意していた台詞を言ったのだが、それを男の子は注意されたのだと受け止めていない感じだった。
「平気だよ。僕、全然怖くないもん」
そうゆうことを言っているわけではない。
意図した会話が成り立っていないことに、私は心の中で苦笑いをした。
「お父さんとお母さんも心配してるよ。さ、あっちに戻りましょ」
「え? パパとママは今ゲームしてるよ」
よく親を見てる。
男の子の言うとおりだった。
「そうかもだけど、お姉ちゃんと一緒に戻ろうよ。落ちちゃったら大変だよ」
「あ、僕ね、スイミングに通ってるんだ。このあいだ、進級したんだよ」
「そう。それは良かったね……」
やはり、あんまし私の言うことは彼には響いていないようだ。
どうすれば、この状況を打開できるのだろうと、考えを巡らせ始めた時だった。
桟橋の端ギリギリまで行ってバランスを取っていた男の子の体が、不意にグラリと傾いた。
悪い冗談か何かのように、目の前の男の子は目をまん丸にして、そのまま湖に落下していった。