プロローグ
もしも、私が願ってもいいのなら……少しの希望が欲しかった。
家族から罵られることも、痛みを与えられることもないような普通の家庭に生まれたかった。
誰かが食べた後の冷え切った残飯を牢に投げ込まれ、それを貪るような生活。
それが――――勝手に期待されて、勝手に失望された私の今の生活だった。
「(寒い……)」
まるで雪山に独りで座り込んでいるような孤独な冷たさで夜も眠れない。
もはや、まともに眠れたのがいつだったかも曖昧になってきてしまっている。
人の位の中でも最も上位の存在である王族に生まれ、厳しさもありつつ温かさもあった生活を暮らしていたような気もする……もうその程度しか記憶にない。何せ、この地下牢の生活が三年も続いているのだから当然とも言える。
だが、もうそれも終わりが近い。
声もまともに出なくなってきた。
あれだけ艶やかだった母譲りの白銀に煌めきなびく自慢の髪は、パキパキと折れてしまうほど枯れてしまっている。
手足はかじかんでしまっているのか固くなって動かない。
視界も虚ろい、今では見えるものは〝暗闇〟だけだ。
「…………」
こうなってしまったのも、〝顕現の儀〟で私が大衆の前で王族という名に泥を塗ってしまったからだろう。ましてや第一王女という肩書きがついているのにも関わらずだ。
私はきっと、明日の朝に目を覚ますことはないだろう。
この暗く寂しい地下牢で誰にも知られず息を止める。
「(あぁ……)」
死ぬなら笑って死にたかったなぁ。
一人で死にたくなかったなぁ。
少しでいいから……――――最後くらいは幸せを感じて死にたかったなぁ。
◇
〝顕現の儀〟とは、神と王族が交わした約束の証である。
王族と呼ばれる者たちは生きている間、必ず民を守ることを義務付けられている。
陥れることも、貶すことも、蔑むことも、まして暴力を振るうことは許されない。
その王族としての務めを果たすという約束の証に、神界から守護精霊を託される。
それが、ここ〈スピット王国〉の力であり代表的な文化だ。
「〝あれ〟は死んだか?」
白一色の服に散りばめられるように飾り付けられた様々な色の宝石、その特別な衣装を着ることを許されているのは王族の者のみであった。
年齢は四十後半、ブラウンの髪をオールバックに口元を囲うように整えられた髭。
ファビン・フォルテ――――現国王は、脇に立つ従者の一人に興味無さげに尋ねた。
「いえ、まだ未確認な状態でございますが……」
「そうか……」
「確認してまいります」
「いや、必要ない。どうせ生きていようが死んでいようが変わらない存在だ、あれは」
〝顕現の儀〟が終了し次第、もう記憶から無くしてしまった娘であった存在。
もはや、王族の従者やメイドたちからも人間だと認められていない――――貴族の恥であり、民や力を貸して貸してくれている神界に住まう神々に知られてはいけない真実。
「まぁいい、今日は次女の〝顕現の儀〟。それと成人の日でもある、盛大に盛り上げてくれ」
「当然であります。私共もこの日を待ち望んでいたのですから」
第一王女の〝顕現の儀〟……今日はそういう日になっている。
それは何も王族だけではない。
王族を讃え、王族を支える民もまたそういう日だということを自覚している。
だが、そんな特別な日に神は彼女に大きな幸せを贈るのであった。
◆
「先輩! お疲れさんでした!」
「はいよー、お疲れさん」
居酒屋の暖簾前で後輩と別れると、男は空を見上げながら溜息を吐いた。
夜の街並はいつも静かで喧しい。そんなかっこよくもないセリフが頭を過ぎると、静かに自宅に向かって歩き始める。
会社が契約している寮の生活も四年目。そろそろどこか良い場所を探したいと考えているものの、せっかくの気持ち良い朝を満員の電車で揺られるなんてことを考えると中々離れることが出来ずにいる寮生活。今しがた別れた後輩は婚約している彼女がいるという理由で寮には住んでいないが、自分には寮から離れるそれらしい理由が見つからない。
「(まぁ、一人楽しいし問題はないんだよなぁ)」
家庭環境のせいと言えばいいのか、おかげと言えばいいのか、一人で生活してしまえる生活力を持ってしまっている自分にとって一人でいることに寂しさというものを感じない。
何なら、一月前まで付き合っていたが「私いらないじゃない!」なんて言われて別れたばかりだ。
ただ、まぁ……
「刺激はないわな、こんな生活」
何も変わり映えのない日々。
スマホを開いてトレンドを見ても、朝見ているニュース番組を毎回違うチャンネルにしてみても、昼食のお弁当の具材を早起きして凝ってみても、全く変わることのない日々の光景。
自分の知らない場所では何かしら起きているというのに、意外と自分の周りでは何も起きない。社会人なんてそんなものだ。毎回行き帰りで「何か起きねぇかな」なんて考えながら、結局は家に到着して風呂に入って眠るだけ。毎日行うような熱中している趣味もないから尚更である。
周りに、こんなに人がいて何も起きない。
都会だろうが、田舎だろうが、結局のとこ自分にとって融通が利くかどうかって話だ。
「ん?」
そんな楽観的で平凡なことを考えてると、背後から地面を蹴る音が迫って来ていることに気が付き振り返った。すると、そこには見たことある女性の顔が目の前にあった。
困ったことに恐ろしいほどの無表情で、更にどこを見ているかも分からない視線。
「お、どうし――――た?」
ドンっ、体ごと押し当てて来た元彼女に困惑を隠せなかった。
いや違う……
「私を捨てたくせに――――」
「は?」
この溢れ出すような圧倒的な熱さに違和感を覚えながら、力が抜けていく体を支えられずに地面に倒れ伏す。そんな姿を見てか周囲から絶叫にも似た音が響き渡った。
つい先ほどまでどこか呑気なことを考えていた男は、血溜まりの中で息を止めた。
瞬く間に血が噴き出し歩道を赤く染め上げる。それを見下げた女性の手には先が薄っすらと赤く染まったアイスピックが握られていた。




