1.さわやかな夏の朝
同年、夏。
まさに夏の盛りと言える日の朝、和人の意識は障子から差し込む強い朝日によって覚醒しようとしていた。
…毎年毎年、公転という奴はよく同じ仕事を飽きもせずできるもんだ…。
いや、近年の異常気象を考えると、仕事の仕方を変えてきているのだろうか?
宇宙も働き方改革かぁ…。
などと、どうでもいいことを考えながら再び眠りに着こうと寝返りを打つ。
もう少し、あと一時間でいいから寝かせてほしい。
…一時間が長いというなら五分だ、五分でいい。
と、夏の太陽に心からのお願いをする。
和人はロングスリーパーの気があるため、とにかく朝は寝ていたい。その昔、早起きが苦ではない和人の友人が、「かっちゃんさ、あと五分寝て何が変わるの?」と聞いてきたことがある。
和人は「馬鹿野郎」と同級生の少年の首を締め上げた。
締め上げながらこう唱えた。
全然違う。
どのくらい違うかといえば、ジャージー牛とニュージャージーぐらい違う。
あれは、イギリスのジャージー島原産だからジャージー牛で、ニュージャージーはアメリカの州の名前だ。
って、牧野原さんが言ってた。
牧野原さん…島内唯一の(二つもいらないのだが)牧場、牧野原牧場の牧場主。
牧という字がゲシュタルト崩壊を起こしそうだが、もうしばらく牧野原氏についてお付き合いいただきたい。
牧野原洋治は、牧場主であると同時に、ふれあい牧場の経営や牧場直産の加工品などの販売まで手掛ける島内随一の実業家でもある。
同時に、牧野原牧場の牧野原さん。なんて嘘みたいな名前を子供たちに馬鹿にされてなお、牧場に遊びに来る子供たちに笑顔で牧場手作りのソフトクリームを振る舞ってくれる人格者としても有名なのだ。
ついでに言うと和人などの昔馴染みは今でもこっそりソフトクリームをもらっている。
そんな牧野原氏の唯一と言っていい欠点が、親として名前を付けるセンスがあまりに先進的であらせられたことである。
大人になった和人は当時を振り返ってこう思う。
一番大事な子供に、世界一特別な名前を付けたい気持ちは、まあ想像できなくはないんだが。
血気盛んな島の悪ガキたちに、そろって「絶対いじるまい」と固く決意させるものがあった。と。
等と、なぜか朝から島のおじさんの事を深く考えてしまった和人の意識はすでに完全覚醒。
一分一秒ごとに強さを増す夏の日差しに観念して布団から起き上がったところで、縁側との間にある廊下に人の気配を感じた。そのまま廊下と部屋を仕切る障子がするっと音を立てて開く。
「あれ、起きてる」
障子から顔をのぞかせたのは和人の妹、静香。
伸ばし放題の髪を適当に後ろで束ね、これまた適当なデカTを着ている。
Tシャツの胸元に大きく「虎徹!」と書いてある。
いや「虎徹!」ってなんだ。なぜTシャツにその文字を書く必要があるのか。
「!」はなんなの。
と思いながら「おはよう虎徹」とあいさつすると、虎徹!は不機嫌そうに、
「静香だよ!」
むしろ完全に不機嫌に答えた。
(しかし、その親日外国人みたいなセンスはさすがにダサいとお兄ちゃん思う)
「このTシャツ、昔兄さんが買ってきたやつだからね」
お恥ずかしいセンスだった。
「…ノックもなしに男の部屋に入るなんてお兄ちゃん感心しないぞ」
「話そらしたね、思春期じゃあるまいし…あ、おセンスはお思春期であらせられる」
「男はいくつになっても思春期なの!」
和人曰く、女性がそうであるように、男性にも異性に見られたくない身支度というものがある。
平等を謳うならば、是非お互いに気を使い合ってほしい。
具体的には部屋に入る前には必ずノックをしてほしい。
そして、返事が無くてもすぐに開けないでください。
ラブコメの「部屋を開けたら~」的な展開は、家族間で実際に起きるとダメージがデカい。ホントに。嘘だと思う紳士淑女の皆様方はやってみると良い。
きっとその瞬間から口をきいてもらえなくなる。
が、静香は後先など考えないバカ一代なので、その手の男女問わず存在するちょっと触れてほしくない部分を平気でいじり倒すのだ。
「はいはいごめんねーお思春期のお兄様♪怖くない、怖くない。私はベッドの下もごみ箱の中も漁らないでちゅからねー♪」
「貴様…姫姉様を侮辱したな」
その一言がダメ押しとなった。和人は決して我慢強い方ではないのだ。好きな物を侮辱されれば右の方の次は必ず左も殴ると決めている。いま決めた。
ナ〇シカ信者として絶対に許さない。
何年たとうが兄と妹のカーストが入れ替わることなどないと、兄に勝てる妹などいないという事を骨身に刻んでやる…。と、断固として決意した。
「悔しかったら朝スパッと起きたらい~じゃん、ねえ、お兄様♪」
フッと息を吐く、単純な事ではあるが、息を吐かねば、息を吸えない。人、これを呼吸と呼ぶ。
続けてスゥッと息を吸う。自分の中に湧き上がる衝動と記憶の中にある呪文を音に、言葉にする。
「否、我が名はお兄様にあらず…!我が名は月の風の巫女…我が手に集え暗黒の輝きよ…フフフ、月は我が同胞なり…」
一瞬の静寂。
「なっなっなっなっ……!」
見る見るうちに静香の顔が耳まで赤くなっていき、その口からは言葉にならない声が漏れる。
やがて、その脳みその処理能力が臨界に達した瞬間…
「ぶっ殺してやる!!」
と、拳を握ってとびかかってきた。
その時和人は、こいつ、最近口悪くなったな。誰の影響だろう。と我ながらどうでもいいことを考えており…。
「ぎぃっぎゃぁぁぁぁ!!いだいいだいいだいいだいぃぃぃ!!ごべんっごめんなざぃ…あやまるからぁぁぁっ!!もうしませんもうしません!!」
「ふぅ…寝起きだからって兄に暴力で勝てると思うなよ」
そして、静香の武力は考えていても何とかなる程度の物だった。
普段から仕事もせず家の中に引きこもっているニート(本人は頑なに自宅警備員と言い張る)であるところの山元静香さん(20)の運動能力は18歳をピークとして、グラフに直せばもはや右肩下がり、滝か絶壁か、というレベル。
そんな武力1の静香の相手は、場外乱闘上等、緑のマットのジャングル(畳)に吹き荒れる嵐の異名を持つ、元プロレス同好会所属の実兄・山元和人(25)。
和人は遮二無二に襲い掛かってくる静香を畳の上にすっころばすと、流れるような動きで、先日、仕事先関係で知り合った女性プロレスラー・ビューティーバタフライKAREN(国籍年齢不明・マスクマン)直伝の「世界一美しいスコーピオン・デスロック」を決める。
その結果がこれである。
開始5秒でギブアップという今年最速の秒殺劇だった。
「痛いぃ…ざぞり固め痛いよぉ…」
「お前、痛みに耐性ないよね」
ついでに学習機能もどこかに置き忘れてきたので、一年に一回はこんな喧嘩が行われる。
和人としても、もういい歳なのでいい加減にしたいのだが、この妹になめられていると思うと不思議と新しい技が綺麗に決まってしまうのだ。
そして良い子も悪い子も、サソリ固めは本当に痛いのでプロレスラーになってから使ってほしい。
なお、今回の喧嘩の原因である「我が名は月の風のなんとか」は静香が中学生の時に書いていた設定ノートから引用した。
©月の風の巫女さんである。
「ぐすっ…ごめんなざいぃぃ…ひっぐ…」
「…………」
さわやかな夏の朝、畳の上で俯せになりしくしくと泣いている妹と、それを見下ろす、兄。
…これやりすぎじゃね?
と泣きじゃくる静香を見て和人に後悔と自責の念が一気に襲ってきた。
二十五歳にもなって素人以下の性能しか持っていない妹に煽られた末、マジのプロレスラーから伝授されたマジのフィニッシュホールドを華麗に決めてしまった。
先に手を出したのが静香とはいえ、誰だって恥ずかしい過去で煽られたら殴りたくもなる、実際に行動に移したのはよくないけど!
とにもかくにも、謝ろう、静香、ごめんな…。今日は一日優しくしてやろう…。気分転換に車で島を回って釣りとか連れてくか…それこそ牧野原さんとこでソフトクリームでもおごってやるのもいいかもな。
「悪かったよ静香、お兄ちゃんちょっとやりすぎた、ごめんな」
「わだじ…おごじにぎただげにゃのにぃぃ……兄さんのバカぁぁっ…かんしゃくもちぃ…ちくっしょう…うぞつき……ぎぢぐ…ぐぞあに…にんびにん…」
「………さてはお前余裕だな」
悪口でしりとりするぐらいには頭が回る妹にダメ押しでげんこつでも落としてやろうか本気で考えた。
こういうことを毎年繰り返すため、二人の喧嘩はいくつになっても終わらなかった。
「そもそもどうしたの。いつも起こしになんて来ないだろ」
静香の手を引いて起こしながら、すっかり忘れていたことを聞く。
そう、静香は普段和人を起こしになんて来ない。
今日に限って…いや、と和人は思う。
今日だからかもしれない…そして、普段起こしに来ない静香がわざわざ自分を起こしに来たのである。
和人の問いかけに、既に虫の息だった静香は。
「美嘉ちゃんさんが…起こして来いって…あと、お父さんの近くにいたくない…」
和人の頭に父の顔がよぎる…そういう事か、と納得した。
「…まず、様子見に行こう。んで、朝飯食おうな」
「…うん」
…和人も、できれば今日は父に会いたくなかった。
二本目も読んでくださりありがとうございます。
ジャージー牛とニュージャージーの間には厳密にいうと関係があります。気になったら調べてみてください。調べてから「時間の無駄だった」などの感想は、書くだけ時間の無駄なので、是非その時間を有意義に使ってください。
具体的にはおいしいお茶とか飲むといいと思います。
作中の静香の悪口しりとりは「起こしに来ただけなのに」「兄さんのバカ」「癇癪持ち」「畜生」「嘘つき」「鬼畜」「クソ兄」「人非人」です。
人生変わるぐらい怒られる覚悟がない限りは、人に言わない方がいいセリフばかりです。
僕は、おすすめしません。