さよなら眼鏡君
二〇一七年、晩秋――
午前六時半を回っても、外は少し薄暗い。
誰も居ない真っ暗な部屋のドアに鍵をかけ、僕はマンションをあとにする。
放射冷却によって低下した温度の中、既に下見を済ませた場所に向かって人影の疎らな通りを歩く。
昨晩スプレーで地面に目印をつけておいた場所は、勾配もなく見通しのいい道路脇の歩道だ。
バスを待つ客のように遠方を凝視すると、少しフラつきながら走るトラックが見えた。ちゃんとここまで辿り着けるのだろうか?
『未来は確定されておらず、蓋然性から描かれる予想図でしかない』
胡散臭い『神』は、そう言っていた。
あのドライバーは、自ら転落人生を辿る確率を高めてしまったのだ。
想像力があれば、運転する前に飲酒などするはずがない。
ほんの少しの想像力すら働かせない人間は、他人を巻き込む禍根となる。
『あの男』も、そうだった――――
幼少期に母を亡くした僕は、十三歳の夏、火災で家と姉と愛犬を失い、父さんは大火傷を負った。
出火原因は、空き巣に入った男が吸った煙草の火の不始末とされている。
姉は犬を助けようと家に飛び込み、父さんはその姉を救おうとしたのだ。
男は『金庫を開けられず他にめぼしい金品がなかったので、住人の帰宅を待っていたが、すぐに帰ってこなかったので家を出た。放火はしていない』などと言ったようだが、そんなものは出任せを並べただけだろう。
家の中では、スムース・フォックス・テリアの『ライカ』が留守番をしていた。
賢くて肝の据わった中型寄りの小型犬で、普段はまったく吠えない。
あの日、近所の人が珍しく吠えるライカの声を聞いた。そして、その声は――
犯行動機なんてどうでもいい。起こった結果がすべてだ。許せるものか。
ところが何故か『未必の故意』さえ争点にならず、執行猶予こそ付かなかったものの、犯人は住居侵入と窃盗、そして器物損壊による量刑で刑務所に送られた。
犯人に科せられた刑が軽すぎたことから、しばらくはマスコミも義憤を煽っていたが、今では忘れ去られた事件の一つでしかない。
あの日から二年――――僕は姉の年齢に追い付いてしまった。
今でも学校では教師と同級生から腫れ物扱いだ。
「暗いな、笑えよ」なんて誰も言えるはずがない。それも優しさなのだろう。
休憩時間には本を読み、家では寝るまでゲームで時間を潰す。まるで誰かが電源を切るまで摩耗していくだけの、機械のような日々――
ある日、いつものように装着したヘッドフォンから聞こえたのは、自称『異世界の神』の声だった。
曰く、『戦力が必要だ。多くの地球人に助けてもらっているが、君の力も貸してもらえないだろうか?』――と。
胡散臭い。
こういうのは大抵『善意で舗装された地獄への道』のパターンだ。
それがただの幻聴で僕がおかしくなっただけならば、そのほうがよかったのかもしれない。
僕は異常の実在を認め、『何故自分が選ばれたのか?』という疑問を抱くよりも前に、あの犯人に報復する力を切望した。
やり場のない怒りを、理不尽に振るえる力が欲しかったのだ。
しかし――そんな狂気に支配された願望は叶わなかった。
神は一柱だけではなくそれぞれが管理する世界があり、他の神が管理する世界の生物が存命のあいだは、別の神が特別な能力を与えることはできないらしい。
そして神を自称する何者かの言葉に、僕は何故自分が選ばれたかを理解した。
『その世界が生き長らえるに足る魅力多きものならば、強要はしない』
救いのない、人を追い詰めるような言葉だ。
魅力を感じない世界で生き続けるのは、いつも両肩を押さえられているような、あるいは低酸素の中を歩き続けるような……そういった窮屈さがある。
だからこそ、僕は自問自答を重ねた。
逃げるのか? あんな奴をこちらに残して、異世界へ?
けれど、こんな生活、こんな日常を、今後も続けていけるのか?
結論は、他人から見れば最低の判断だろう。構うものか――他人は他人だ。
父さんを独りにしてしまうのは心苦しい……だけど父さんは、あの炎の中に飛び込んだ強い人だ。僕とは違う。分かってもらえなくて構わない。許しなんて求めていない。
これは僕による僕への罰なのだから――――
「時間通りだな」
中学の入学祝いにプレゼントされた腕時計で確認する。
「そうか。これも一緒には行けないんだな……」
ライカを抱いた姉と父親――二人の笑顔と春の温度を思い出し、文字盤が霞む。
ずっと抑え込んでいたそんな感傷も、あと僅かで光に包まれて一緒に消――
「へぶっ!?」
不意に何かが顔面にぶち当たり、驚いた僕はその場にへたり込んでしまった。
眼前のトラックは速度を緩めることなく縁石を乗り越え歩道に入り、その衝撃で居眠りしていた運転手も目を開けたが、もうブレーキは間に合わない。
刹那に生じる轟音。
僕は目印の場所には立っていない。ここでは駄目なのだ。
その場所には、今――――
「そんな……嘘……だろ?」
ずれた眼鏡を直した僕は、もう一度腕時計を、飛んできた学生鞄を、そしてコンクリートの壁に激突して止まったトラックを見る。
クラクションが鳴り止まない。心臓が早鐘を打ち、冷たい汗が噴き出す。
「誰が……鞄を……?」
トラックの下の鈍色に、赤がじわりと拡がっていく。音が、鳴り止まない。
「助け…………なん……で……」
制服の袖から先が見える。肌から彩度が奪われ、命が失われていく……光の粒子になって消えたりはしない。
「だれか……たす、け……」
こんな光景……二度と見たくなかったのに……。
「誰かあぁ! た、助けてあげてくださぁあぃっ!!」
通勤通学の時間帯だ。すぐに後続車が停まり、人も集まる。
救急車のサイレンが遠い。
『未来は確定されておらず、蓋然性から描かれる予想図でしかない』
異世界の神は、何をどこまで予見していたのか。
招かれたのは本当に僕だったのか、それとも……。
大音量で接近するサイレンに、そんな思考は掻き消されていく――――
§
「えー『雛竹将二』様の擬体至急構築――って、あれ!? 神様? 亡くなったのは別の方のようですがどうなるのでしょうこれ? え、わたくしが説明!? ですが事前の情報をいただいておりませんがどうしろと……え? もう転生開始!? わ、分かりました参りますがその、もう少しお時間を……無理? この野郎! あ、この野郎とか言ってごめんなさい、また殺さないでください記憶引き継ぐの面倒臭いんですから行きますよ行けばいいんでしょ、このやろ――」