4.
三か月前
フランス
ノマッド村
私は必死に逃げていた。
何から?
よくわからない人々から。
それが、人なのか人外の末裔だとする者なのか、到底判断などつかない。わかっているのは人とおなじ姿形だということ。
三日前に世界に発信されたあの映像で不安になった人、あの映像によって隠れて生活する人生を放棄した者たち、共存という道があると訴えかけている人や者たち。
混乱、恐怖、諦め、混沌、乱動……
滞在していた宿が襲撃された。
街も同様に何がなんだかわからない状態だった。
安全なはずの日本大使館にはとても近づくことができなかった。宿から大使館までの移動手段がなかった。
街中で聞き取れる情報を頼りにして、命綱であるネットを時折開けて情報を照らし合わせてノマッド村にやって来た。
身分証になるパスポートと財布と日本政府がバックアップしているネット決済システムがインストールされた携帯電話。それにメモ帳にペン。
それだけでやって来た。着の身着のまま、訪ねる予定のなかった場所だから土地勘もない。
どうやら遅かったみたいで、くすぶる煙と誰もいない雰囲気が漂うばかり。
私の語学力では──特にフランス語は単語が聞き取れるかどうか程度では、違った意味合いをここが安全だと思い込んでいたみたいだ。
全身が震えてくる。
怖さもあるし、着ている服が薄いからという寒さ、なによりもこれが自分という存在の終焉なのかと思うと泣き出したいのか、堪えたいのか。そんな重なり合った感情からだった。
じっとしてその最期を受け入れるべきか、抗うようにドイツやスペイン、イタリアなどの場所にただ歩き始めるべきか。
どれも良くない。
どれも正しい選択にも思える。
誰かが住んでいたような家の塀の陰で時間ばかりを見送った。
白い雲と灰色の雲、それに薄い水色を刷いた上にもう一度、薄くしたような空。
空を眺めていると存分に創作意欲が湧いてきた。何を暢気に……とはなるものの、それくらいに自然は地上で起こっている出来事に無関心だと思えたからだ。時間の流れもスケジュールも違う。
唐突に、動こう──そう思った。
今振り返るとそれはとても無謀な行いだとわかる。
でも、あの時、どうすべきだったのかは答えられないままだ。
ノマッド村に行く前にもっと入念に情報収集をするべきだったかもしれないし、動くくらいならば大使館に行くべきだったかもしれない。
そんなたらればは、その時々には存在しないものだ。
大きな音を立てずにいるなんて難しいけれど、注意を引かないように意識した。どこかで音がすればそれに紛れますように、というように。
その音の正体はただ、自然が立てる音なのか、それとも襲われている人が振り絞るものか、ここを滞在場所と決めた人外かそれとも動物なのか。
脂汗が顎から首筋を下り落ちていく嫌な感覚。
背中の部分はべたりとした汗にまみれて、全身から不快臭がしているようだった。
そんな逃避思考をしていないと聞こえてくる世界を引き裂いてしまうような悲鳴に私自身も声を上げそうになっていた。
すぐ傍で、ほんの腕を伸ばしたほどの距離にまで、“何か”が見張っていると感じられる。その“何か”の息遣いが耳にかかる錯覚がしたほどだった。
身体は生理的現象として震わせた。ぶるぶるからがたがたに変化する。その間にも悲鳴は強弱をつけて、最後にはかすれる声が断続的に聞こえる程度になった。
耳元にあたるような息遣いは止むことは無い。それどころかさらに熱を帯びていく。ずっと瞼を開け続けておく。そうしないと次に飛び込んでくるのは、“何か”の口の中のような気がしたから。口があったらの話だけれど。そこで瞬きの重要さを知った。できる限りではなく、ずっと開けておくと頭がおかしくなりそうになる。
混乱からどうでも良いことを考えようとする。
でも、すぐに現実に首根っこを掴まれて戻される。そのまま継ぎは恐怖から眠ってしまいたくなる。
その誘惑に駆られた時に、嘲笑う愉しみを満喫しきった口元を持った、赤紫の咥内が飛び込んできた。
とっさに腕を前にするつもりが、手を後ろについて逃げようと腰をずらす。
前に差し出す形になった脚を赤黒い絵の具に浸したような腕が手加減なく押さえつけた。
もう、終わりだ。
全身の力が抜け落ちていく。
それに合わせるかのように人生のなんでもない、一ページ一ぺージが再生される。
心の中では映写機で、脳内では時代に合わせるようにモニタで色彩加工されて見やすくされて。相応しい効果音が耳元で演出される。
それだけが救いだった。
目に飛び込んでくるのは、とても全年齢向けにできないような光景だった。そしてその行為は捕食というものではなかった。
否定したいという願いが聞き届けられたのか、痛みは鈍かった。訂正しよう、救いはまだあった。恐怖が惨状を否定してくれているおかげだった。
でも、もう終焉の幕は引かれつつある。
だから三日前に見た、意志の強そうなブルーの瞳の女性が佇み、“何か”の首元らしき箇所に得物を当てていることは幻想だ。
「生きたい? それともここで安らかにしてほしい?」
慈悲ある狩人の眼差しに聞かれた私はぽかんとしていた。
“何か”も何故、自分が背後を取られているのか理解できていないようだった。そのまま得物が体内に埋まっていき、古い水道管に水が吸い込まれていく時のくぐもった音を立てて崩れ落ちてきた。
その光景が答えを決めた。決めてくれたようなものでもあった。
「生きたい」
答えると同時に胃液だらけの唾とも水分とも言えないものが喉から口、体外へと吐き出された。鼻で笑う声が聞こえたけれど、それが安堵と痛みを起こして私の意識を断線させた。