19.3
1920後半~30年ごろの記憶 持ち主不明
雪深い土地に足を踏み入れることに抵抗はなかった。
だが、自分ひとりではなく、連れが居るとなると話は別だった。
太陽が年中、光を降り注ぎ、すべての生命を育んでいるような土地で育ったそのヒトの子どもは寒さをあまり知らなかった。
雪も実際の目で見たのははじめてだろう。肌で──毛がないにも等しいその肌で──感じたことなどなかっただろう。
足を何度も取られながらもその子どもは次第に学んでいく。
目の前の──私が歩いた跡に続けば、無理なく歩けることに。伝えるべきだと知っていたが、差し出されたものしか知らないのでは、これからの人生を歩くには厳しい。
「大丈夫か?」
雪が口の中に入り込まないようにして喋る。くぐもった、不機嫌にも取れる声を出したが、その子どもは気丈にも怯むことなく、目を合わせて頷いた。
「もうすぐ、大木の下に着く。そこで休む」
身体の芯を温めるなんてことはもうすでに不可能になっていた。魅せられたかのように子どもは火に近づこうとしている。どんどんと距離が近くなっている。
「こっちに来い」
夢から覚めた顔をして頷く子どもは、気恥しい顔をさせて私の毛布に入り込んできた。私が寝ないからなのか、必死に目を開けていようとしている。
「大丈夫だ。明日にはおばばさまに会える。おばばさまなら、おまえのお父さんもお母さんもきっと連れ戻してくれる。そうしたら新大陸である、アメリカに渡って生きればよい」
この子どもは私たちの協力者というだけで、ヒトの群れからはじき出されるだけでなく、どこかに連れて行かれた。
あの国では水面下でヒトが、あらゆるものを超越しようとしている。
ゆっくりとゆっくりと国外に出ようとしている人外が多い。その手助けをしていたこの子の親はたぶん、もう戻って来られないだろう。
おばばさまはそんな子どもや親族を集めてアメリカや他国に逃がそうと動いている。けれども、ずっと連絡がつかなかった。
「……ダイアナも行くの?」
「口が聞けるのか。なら、アメリカでも安心だな」
「ダイアナも行くんだよね?」
身なりや肌の状態から良いとこの坊っちゃんだった。おばばさまに貰った情報からも貴族階級に連なる家なのは知っていた。
だから、喋れないこと以外では苦労の有る無しは仕方がないとしていた。
「いや。私はおまえのような子どもたちや家族を助けることが最優先なんだ。きっとアメリカでは友だちがたくさんできるだろう」
「アメリカには父さまも母さまも居ない。知らない人だらけだ。ヒューイやフレディみたいに楽しませてくれる友だちを殺した同類だらけの中で生活するなんて……」
ヒューイやフレッドは魔術師だった。
群れを作らないタイプなので、中流階級以上だけを相手にすることもなく、どんな場所にも表れた。
私には接点がなかったが、一番上の姉がよくもてなしていたと聞いた。子どもの扱いも見事で、泣いていたのがうれし泣きしているとよく言っていた。
「そんな奴らを見返せ。どれだけの血が流れても、生き残ったからには血の緞帳を背景にしても、幸せになることが一番の弔いだ。友だちやその友だちすらも守ってやれるような男になれ」
私はほかの兄弟姉妹のように学業が重要だと理解できなかったから、こんな言葉しか掛けられなかった。ひとつ上のダニエルのように引用したり、意志を持たせることができる力があればと唇を噛んでしまう。
「……じゃあ、今はダイアナに守ってもらってるけど、」
『……!! はやく、にげろ!!!!』
つんざくような叫びが脳内に入ってきて、嗅覚を刺激するあのニオイがあった。
同類の者がまた倒れたのだ。
それだけで脚は早くなる。
おばばさまと落ち合うはずのあの場所へは休憩も必要としなかった。
いや、止まってしまえば自分が恐怖を感じていると知ってしまうから。子どもは敏感だ。それをすぐさま感じ取り、伝染してしまうだろう。
ずっと子どもは何かを言っている。
耳を貸せるほどの余裕はなかった。
あちらこちらで魔女や魔術師、吸血鬼、同胞、妖精とヒトが呼んでいた者が駆られ取られる声が脳を侵食していた。
息が上がっている。
それでも必死に息を殺している。
ヒトのふりをしているし、下水のニオイを付けた方がマシだが、香水を振りかけてもいる。それでも新たに心拍数は上がっていく。
駆け付けたときにはもうすでに、おばばさまは殺された後だった。その時から、ヒトの振りをして移動をし続けて来た。
今日、この港から私はアメリカに渡る。
託された子どもと共に。
「ねえ、ダイアナ。ぼくは努力する。するだけじゃなくて、みんなを守ってあげられるような会社を作るんだ。だから、それまでは一緒にいてほしい」
おばばさまはもう居ない。
私の家族もすでに殺された。
あとは私の命だけ。
別に未来に続く約束じゃなくても、頷いていても構いはしないだろう。