1.
鼻腔をくすぐる人ではないそのニオイ。
トーアは身体を震わせた。断ち切られてしまった腱へと視線をやる。
痛みは感じなくなっていた。
どうしようもないほどの無力感と顔を覗かせてきていた絶望を認めてしまった。
──諦めたくなかったのに……!
唇を噛みしめた。
悔し涙が堪えようとしてもとめどなく溢れてくる。その最中にもトーアの身体を取り囲むようにゆっくりゆうっくりと、異質な空気が流れてくる。
「絶望的すぎるだろ……ごめんなぁ」
声に出した瞬間、突然すべてが変わった。
─ ─ ─
次作のイメージをそのままとペンで一気に書いていると集中力が断たれた。
私が腰を落ち着かせていたカフェ近くの通りを騒がしい音が支配している。
パトカーに救急車、消防車。日本とは違う音に驚いたり茫然と立ち止まったりしたのは随分と前のようにも感じる。
でも、まだ三か月程度しか経っていない。だからと言って、慣れたと言い張れないし、怯えてちょっとだけ安全だと思う部屋に逃げ帰ろうとは焦らなくなった。
目の前にある、日本語で書かれた文章とその先を急かすような思考。
頭の中では先の先、そのまた先の展開まで進んでいる。
どうしても言葉が追い付いていかないのだ。
湧き出てくるイメージを紙とペンでそのまま書いて、組み立てて、切り離してくっつけて、捨てての作業を入れる。
この作品には力を入れ過ぎてしまっている。
起死回生。
捲土重来。
違うな。
失地回復……はもっと違う。
一発逆転が近い。
私は小説家という門を潜り抜けただけ。
紡いだ物語が製本され、それを門の隅の端で配っては受け取ってくれている人を探している。ニッチ好みな人たちが興味を示してくれて、期待と興奮、出会いと別れ、そして愛を追いかけてくれた。
溜息の代わりに言葉にする。
「上手くいかないな」
「今は日本語講座をありがたく聞いてられないの」
無意識に着信に応じてた。よりによっての相手ではないけれど、似たような相手で押し黙ってしまう。
「ハロー?」
誰かに声を掛けられたのかと周囲に目を走らせる。
カフェカウンターと奥側の席近くから歩いてくる根幹がしっかりとした、でも薄い体形のアジア系の性別不詳の人が居た。
イヤフォンをから聞こえてくる相手の声に耳を傾けて、先ほどの返事以外、声を出していない。眺め過ぎて怒られないようにカフェラテを口に運んだ。
近くの席にいた大柄な男性が通りの騒ぎが気になるのか立ち上がった。通路をふさぐというわけでもないけれど、性別不詳のアジア系の人が避けて通ろうとこちら側に近づいてくる。
「ところで聞いている? さっきオーダー通りで複数の事故があったの。一旦、拾うから場所を教えて」
電話越しにもピリピリとした空気が流れてくる。溜息をついて場所を言い、カップを置こうとしたタイミングと性別不詳の人が手を上げたタイミングが重なった。
「ごめんなさいっ」
「ああ、ごめんなさい。汚してない?」
「だいじょうぶです。飲み切ったあとなので」
安心するように笑みを見せつつも、その人は大事な電話なのか、ジェスチャーでさらに謝罪してきた。なんでもないよ、と送り出した。
荷物をまとめつつも、まるでデジャブに近いと思った。
私の電話の相手──ダイアナと出会った時と似ている。
ダイアナとの出会いのせいで、私の人生は変わった。湧いてくる物語も変わった。