閉ざした小部屋と釜の音
22世紀初頭
もう、あれから、人間の生き方は大きく変わった。数回に渡る技術革命から数年、それらが徐々に人間の代わりに生きるようになった。人間に残った仕事は、「したいこと」をすることであり、「好きなこと」をすることであった。機械が働くようになってからというもの、人々はたとえ働かずとも、食うには困らないようになったのである。このような生き方が浸透する前、躍進する技術革新に対して懐疑的だった人々も多数存在した。彼らはその最前線をゆく企業を「機械が人々から仕事を奪うことを全く考えない」「仕事がなくなって困る人が増える」独善的な連中だと非難していた。だが、仕事の本質が「その転機」前後で変わることはなかった。仕事は「ある」もの、あるいは「探すもの」「受けるもの」といった考えに則って生きてきた、受動的な人間たちにとって状況は変わらなかった。仕事が減ったからである。時間に余裕は生まれたものの、その時間をどう使ったらよいのかわからない。「好きなことがない」者たちにとっては地獄が待ち受けていたと言える。自ら好きなことのために動くことのできる人間たちは、そんな収入があったとしても、自分でなにかしら好きな仕事を作ることができた。
仕事の範囲は大きく変わった。人間の「意志」「信じること」「好き嫌い」によって決まることだけに集約され、それ以外の、それに付随するだけのものはほとんどが、機械たちが担ってくれる。
その多くが削ぎ落とされ、無駄なものがなくなってしばらく、人間たちは均質的な世界から抜け出すことを求め、無駄なものを欲するようになった。
静かな部屋の片隅に置かれた釜が、ふつふつと湯気を立ち上げる。白く熱い一筋の湯気は、一体どこへ向かっていくのか、その行先を決めることが出来る者はそこにはいなかった。風のない部屋の中では、湯気もまるで、送り迎えをしてくれる人がいない一人の不憫な男のよう。こんなヤツに限って「誰か話し相手になってくれないかな。」と、近くを通りすがる女性に目を移ろわせながら、どうしたらいいか決めきれずにいる。もたもたしていても、否応なしに時間は過ぎてゆく。何者であれ、その現実に抗うことはできない。その湯気は、行き先を自分で決めることもできぬまま、天井の通気口に吸い込まれてゆくか、あるいは、いつのまにかどこかへ静かに姿を消している。
熱く、しかし静かに燃え続ける炭ときたら、時としてその粉を飛ばす。橙に光る小さな火の粉は、あたかもずっとそこから出たくて飛び出してきたかのようである。鳥籠から飛び出した小鳥のように、あるいは、小さな町を居た堪れなくなり、夢と可能性に満ちた都会へと、無鉄砲に飛び出して来た青年のようでもある。そして、その青年もまた、熱く燃える何かとなり、何かを秘めている。その先に広がる畳へと上手に移れるかどうかはわからないだろうが、大方すぐに見えなくなってしまうというのが世の常である。
その小さな部屋には、その小ささゆえの窮屈さや、閉塞感を忘れさせてくれるほどの世界観が広がっている。茶の湯が滾るフツフツという水音は、その空間に居る者の瞼を重くする。そして、人はその水音に、瞼と耳を委ねる。絶えず聴覚を通して入ってくる沸々という音が、見えるはずのないその釜の中から、部屋の様子までを、ぼんやりと脳裏に映し出す。往々にして、人を心地よいうたた寝へと誘う。この小世界で船を漕ぐことは、日向のぬくもりに劣らぬ癒しをもたらす。
己の存在意義に疑問を持ち続ける時間がある。
「ワタシは、なんのために生まれてきたのか。」
「ワタシにできることは何か。」
毎日、目を閉じてそのように自分に問い質す時間が来る。考えること自体には意義がない。考えた先に、「だからどうする」があることが大切なのだ。そんなことは分かっている。そこにたどり着くまでには、しばし時間がかかる。
例えば、20歳という年齢が人生の岐路だとする。
「自分が何者になりたいのか」「自分が何をしたいのか」を理解した上で、その道を選択する必要があるのだが、どれだけの人間にそれがうまくできていることか。それが有耶無耶なままに己の道を決めてしまうと、「自分は何者になりたかったのか」という疑念や不透明感を抱き始める。そのようなことを感じることは悪いことではなかろう。きっと遅すぎることはない。ただし、どれほど悩めど、時間だけは過ぎてゆく。時間との戦いが、ワタシをキリキリと苦しめる。まるで、何かまったく形のないものに押し潰されそうな感覚だ。「時間」という名の、目に見えない、そして確かに存在する敵である。戦うのではない、抗うと表現するべきか。「時間」そのものは、人間が戦って勝てる相手ではない、征服や克服はできない。今のところは。
20歳の青年Aが、一年もの間「ワタシは一体何者なのか」を考える、あるいは悩み続けたとしよう。その一年を過ぎた頃に、「一年過ぎたこと」そのものに気づくことができているのか、が問われる。時機は人それぞれであるかもしれないが、そのことに気づくことができなければ次の段階には進めない。
好きなことがある人間は、こんなことで悩むのだろうか。好きなことがある人間なら、「自分が誰か」なんていうことはどうでもよい。「自分が好きなこと」をする時に、人生の悦びを感じている。だからそもそも、人生の悦びが云々、という話自体をせず、する必要もない。
例えば、何かを発信するのを好きな人間がいるとする。その人はもちろん、「何か」そのものにも関心がある。しかしその人がしたいことは、その先にあるそれを「誰かに教える」ということである。その人は、自分が「コレコレを私は発信していますよ」と自分の存在や行為を訴えたいのではなく、「コレコレに興味を持ってくれる人が増えたら嬉しいな」というところに、快感ややりがいを覚える。その報酬を得る手段として、その人は「発信」を選択したに過ぎない。だから男は、「あの人、コレコレしているらしい(笑)」と誰かがコソコソ言うことを快く思っていなかった。
考えても何も変わらないということ、「一年経ったのに、じぶんは何も変わっていないじゃないか」ということに気づくことができれば、その二度と戻らない一年間という時間は、無駄ではなかったといっても良い。
動かなければ、時間だけが過ぎてゆく。今の自分の行動に、自分の意思は根付いているのか、人生が終わる時、いや、もっとその前、「あの時ああしていれば」といっても、「あの時」は返っては来ない。
そう思えば、とても便利な世の中になった。現金がなくても買い物ができる。
己の描く人生を、夢を生きたらいいじゃないか。
お茶の最中にこんなことを考えたくはない。何事にも代え難い貴重な時間に、どっぷりと浸りたいのだから。なのになぜか、この部屋の空気は、男の頭の中のグルグル巻きの包帯をあっという間にどこかに捨て去り、あらゆる情報の交通を良好にする。毎日入ってくる情報が、同じところを何度もぐるぐる駆け巡る。同じことがいろいろな道をずっと走り回っていることだってある。
まだまだひよっこの男が、年齢が一回りも二周りも違う女性たちと同じ空気を味わい、同じ「非日常」を共有している。大人の女性のか細くきれいな腕から指先までの動き、あるいは豊満な年季の入った姿を目で追う。若い女性にはない魅力だ。まるで、目にはセンサーでもついているかのように追尾する。白い肌にうっすらと浮き出る血管がひくひく動く。きれいに手入れされた爪は、大人の女性の手先をより美しく魅せる。ベージュは気品ある大人の女性の色だ。飾り過ぎず、貧相でもなく、かと言って、気を配っていないとも思えない素敵な色だ。ほかの色には、こんなことはできない。
男がそう思っていた、それだけのこと。
好きなのは、爪だけじゃない。
取るに足らない悩みから、精神が解放されたとき、男はきっと、大人の女性の目を真っ直ぐ見ることができるようになる。パッチリしたきれいな瞳が大好きだ。目がきらきらしていて、女性と普段ろくに話もできないような男が、人が変わったかのように話しかけてしまう魔力を秘めている女性だ。
タタミはいい香りだ。シッコウで歩くときに出る、タタミが擦れる音も、足の裏で擦れる音も、タタミだからこそ出すことが出来るもの。あの部屋じゃなければ味わえない世界は、忘れ去られつつあった。タタミにしろ、障子にしろ、同じこと。それがもう半世紀も前の話。タタミは、地球から姿を消そうとしていたという。今では信じられないかもしれないが、本当の話だ。
時代は変わる。それは、時代を作るのが人間だからであり、人間そのものも入れ替わってゆくからである。人間たちは、次から次へと新しく、クールなものを作っていった。古くから存在するあらゆるものも、それらと同じ土俵に立たされるのだ。使われなくなって消えてゆく、クールじゃないから消えてゆく。無駄なものは気づかぬ間に姿を消していった。その時代についていけないものは、なんであろうと置いていかれる。生命が宿っていようと、そうでなかろうと。有機物であろうと、無機物であろうと。
生き残るために、「自分も変わる」。変われないものは、死んでゆく。
たまたま生き残るヤツもいるかも知れない、そいつは運のいいヤツだが、次もうまく生き残れるかはわからない。とはいえ「生き残る」の定義は難しい。何を以て、「生き残った」と称するのか。
たまにこんなヤツがいる。
じぶんを曲げて生き延びるくらいなら、死んだほうがいい。
あるいは、なるようになる。
ここに、一つのりんごがある。「生きた化石」と呼ばれる品種だ。なぜか?過去にこの品種を研究した人間が、一億年も前から生きていると発表したからだ。ここに疑問がひとつ浮かび上がる。このりんごはずっとこのままで生きてきたのか?そうだとしたらすごいことだ。
変わる前その一、「このりんごはかつて、木にならなかった。」
変わる前その二、「このりんごはかつて、食べられなかった。」
変わる前その三、「このりんごはかつて、赤くなかった。」
このりんごは、何らかの理由で変わらなければならなかったのだ。
変わる理由その一、「地表だとみんなに食べられてしまう。」
変わる理由その二、「誰かに食べてもらわないと子孫を残す手段がとても少なかった。」
変わる理由その三、「草と似た色だと全く目立たない。」
驚くことに、地面に成っていた頃のりんごは、どんな生物も目を光らせて欲しがったという。でも、食べられすぎて仲間の数が困るほど減ってしまった。そういえば、食べられなかった頃のりんごは、身を守る道具として弱い生物に重宝されていたという。でも、弱い生物たちに頼るだけだと、自分たちの子孫を広い地域に残せない。地味な色をしていた頃のりんごはというと、その土地にとっては大切な栄養源だったという。でも、赤い果物が存在するという情報が流れた途端、一気に世界を駆け巡り、瞬く間に仲間を増やすことにつながった。
「そのままの姿であり続けないと」、「生き残ること」にならないのか?生きていればいいのか?
「命あること」あるいは、「名を残すこと」が「生き残ること」なのか?
「じぶんを貫く」そんな哲学もまた美しい。「信念」を持って生きている人間がどれだけいることか。命に代わるものはないけれど、誇れる生き方があれば、死に方も誇らしいものになる。
変わるのが怖いですか?笑われるのが怖いですか?
自分に問いかけながら、釜の蓋の隙間へと目を移す。