1 事件発生 暗号鍵解
その夜も、暗号鍵解は普段通り仕事をしていた。
――仕事。
不動研究所は人工知能の研究機関だ。研究所で、解は認知能力の基礎研究に携わっていた。
不動研究所は、研究者にとって理想的な環境だ。まず研究資金に悩まされない。人工知能の将来性の評価は高く、その分野で実績のある不動研究所は、出資者に恵まれていた。助成金の申請に追われることは無い。加えて業務は各自の裁量に一任されている。無駄な会議などは無い。日常的なコミュニケーションはチャットを通して行われていた。
しかし解の日常を壊したのも、そのチャットだった。
22時を回った頃。解のPCに新着メッセージを告げるポップアップが立ち上がった。
> [満夏] 解君、自室のドア開けられるか試してくれない?
送信者は、研究主任の慈満夏だった。
カードキーが開かなくなったのだろうか?
解は自室の入口を見た。金属製のドアの右手に設置されたカードリーダー。ランプは緑色に点灯している。特に異常は見られない。
「了解」と返信し、椅子を滑らせ、リーダーにカードキーをタッチする。
ピーッと警告音。エラーを示す赤ランプが点灯した。
なるほど、確かに問題が発生している。
解は再度椅子を滑らせ自分の机に戻った。
>[解] こちらでも開けられませんでした。原因を調査しますので少々お待ちを……。
解はシステム管理も兼任している。急いで対応せねばなるまい。
チャットの共有ルームを開く。30分ほど前から、エラー報告が次々に上がっていた。
解は考えた。まずは原因の切り分けが必要だ。エラーは同時多発的に発生している。つまりデバイスの故障とは考えにくい。ネットワークは落ちていない。このことからソフト要因に絞り込める。まずはエラーログをチェックする必要がある……。
思考をシーケンシャルに進めつつ、セキュリティサーバーにRoot権限でアクセスした。
だが、アクセスが弾かれた。
入力ミスだろうか? その可能性は低い。
確認のため、再度打ち込むと、「アクセス権限がありません」と表示された。
言語化しえぬ嫌な予感がした。
突如、室内の照明が落ち、解は思わず上を向いた。
「研究所のみなさん――」
天井のスピーカーから、無機質な合成音声が聞こえてきた。
この声は、研究所が開発したロボット・Nだ。
「――Nは、不動博士を殺害しました」
解の、いやおそらく全職員の思考が停止した。
何と言った? 冗談? 聞き間違え?
否定的な可能性を列挙した。
「Nは、警察に自首します。警察の到着まで、今しばらくお待ちください」
時刻は22時05分。