手を離した彼ら 4
「――……」
重苦しい沈黙が謁見の間を支配した。
誰も、何も喋らず、こんなにも人がいるというのに、聞こえてくるのは外の自然の音だけだ。
長い時間、ただの一人も動くことが出来なかった。
彼女たちが立ち去ると同時に、今まで王宮に漂っていた力が激減したことに、気づかない者はこの場にいなかった。精霊王が消えたからではない。精霊王はあくまで偶発的に王宮へ訪れただけであって、今まであった王宮を満たしていた力とは別物だ。
ナナエたちと共に去ってしまった精霊が、ここに棲みついていた精霊だったのは明白である。
窓の外で、強い風が吹いた。頑丈な建物が軋みを上げるほどの、強い風。燭台に灯されていた蝋燭の炎が揺らいで、光が遠ざかる。重みを増した闇は、静穏よりも不安を煽った。活けられていた花瓶の花が落ちて、中の水が濁り、玉座や王冠に嵌められていた宝石に罅が入る。
「う、そでしょう……」
椅子に腰掛けていることも出来なくなった王妃が、転げ落ちるように床に手をついた。いつまでもナナエたちの消えた場所を見つめて、蒼くなった唇を戦慄かせている。震える声で吐き出した心情は、その場にいたセイコ以外の人間全員が思っていたことだった。
耐え切れなくなった者たちから、糸が切れたように順々に床にへたり込んでいく。
「精霊……が」
「馬鹿な……」
「ナナエ殿……」
茫然自失を集団で体験することなど滅多にないだろう。ナナエたちが消えてしまったことを信じたくないと言うように、皆の眼は未だ彼女たちが立っていた場所に固定されている。
失ったものが、大きすぎた。
到頭リャクスウェルも膝をつき、これで立っているのはグライゼンとエッセルト、扉脇に控える衛兵二人と、宰相とオンジャクル、セイコのみとなった。顔色がまともなのはセイコだけだ。
「どう、しよう、ナナエ……」
ネネルラが嘆いているのが、失った友情ゆえか国家の損失ゆえかは、聞いた者では判断つかなかった。
今になって、皆の脳裏にナナエと過ごした日々の思い出が過ぎった。
ヒザキナナエ。
肩を覆う黒茶色の髪に黄みがかった肌、明るい茶色の瞳に、よく見なければ分からないほどの雀斑が散った異国風の顔立ち。
高くもなく低くもない背丈、程よく丸みを帯びた年頃の女性らしい体つき。貴族の婦女子ほど華奢ではないが、それでも戦いには縁がなかっただろう、平和な思考をした普通の少女だった。
真っ直ぐに、目の前の人間に視線を合わせていた彼女。
とても、表情は豊かで。
召喚された時の驚いた顔。世話を受けた時の申し訳なさそうなはにかんだ顔。軽い笑い声。諦めたような溜め息。真剣な面持ち。寂しそうな横顔。穏やかな微笑。不機嫌な膨れ面。落ち着いた声音。怯まない瞳。必死に噛み締めた唇。困りきって下がる眉。
緊張して挙動不審になったこと。恥ずかしさに身悶えていたこと。楽しそうに猟犬と戯れていたこと。誰にでも気さくに声をかけ肩を叩いていたこと。
力無い者を庇う背。恐れずに歩を進める足。脅威を退ける腕。安心を齎す温かい手。
溢れていた、木漏れ日のような優しい存在感。
それらがすべて、凍りつく。
懇願の眼差し。震える声。精気を失する力ない瞳。――拒絶の笑顔。
「取り返しが……つきません」
エッセルトの呟きが、広い謁見の間に響いた。
許しを乞う以前に、憎しみすら向けられることがないのだと、彼女の最後の態度が物語っていた。
謝罪には意味がない。弁解の余地もない。関わることも許されない。
完全なる拒絶。
それが、愚かな真似をした自分たちの得たもの。ナナエだけでなく、この地に棲んでいた精霊たちからも。
何をした。何をした。自分たちは何をしたのだ。何故、どうして、自分たちはあんなことをしたのだ。
「……何とかしろ……」
低く獣のように唸り、喉の奥から搾り出された声は国王のものだ。
「誰か、何とかしろ! ナナエを取り戻せ! 精霊をつれて来いっ! こんな……こんな結果は許さん! リャクスウェル! お前たちがナナエを探し出して連れて帰れ! 邪霊討伐隊に命じる! ナナエをここに連れ戻せ!!」
激昂した国王は泡を飛ばして勅命を下す。はっと我に返った人々が国王を見つめるが、討伐隊の面々は動かない。否、動けない。
今までナナエと共に過ごすことで積み重ねてきたものを、すべて無にしたのだと悟っていた為に動けない。
最早、すべてが遅すぎるのだ。
――と、そこで可憐な声が響いた。
「大丈夫です、国王陛下」
今まで、無言で打ち拉がれていた人々を睥睨していたセイコが言う。
「あたしが居ますから、安心してください」
気安く国王の肩に手を置こうとしていたセイコの手を、険しい顔つきのまま国王が払いのけ、睨みつけられた彼女が目を見開く。
「どういうつもりだ、セイコ……」
「な、何がですか……?」
凄まじい剣幕に押され、セイコの足が怯んだように後退する。
「お前は、余に言ったな? ナナエは愚かで、己のことしか考えていない、邪な娘だと。そちらの世界でも、常々お前を虐げ、母を脅し、義父を利用していると」
「そ、そうです。お義姉さんはいつも……」
「そんな輩が、精霊の加護を受けるわけがない! あのように属性の別なく、すべての精霊たちが集ってまで心を寄せるはずがなかろう! 況して精霊王など、伝説の上を行く寵愛ぶりではないか! 何を企んであのような讒言を申したのだっ!!」
ひっ、と息を詰まらせたセイコに、無数の視線が突き刺さる。ガタガタと震える足が、また一歩二歩と下がっていく。
それでもセイコは己の言を覆そうとはしなかった。
「ち、違うわ! 本当よ! あいつは、いつだって鬱陶しくて邪魔な女だったのよ! あたしの家に入ってきて、パパが気にかけなきゃいけなくて、いつまでも他人行儀なのをママだって一々気にして! どうでもいい存在のくせにいい子ちゃんぶって!」
セイコの背後に噴出す暗い色の靄は、万人には見ることの出来ない邪気であったが、エッセルトやオンジャクルには見ることが出来た。王女にも見えたのだろう、口元を覆って悲鳴を堪えている。
「大して可愛くもないくせに西貝先輩や石村くんに構ってもらって! ハウスキーパーだって楽しそうに喋って! 被害者ぶった眼を向けてくるくせに何にも言わない愚図で!」
叫ぶうちに怯懦は収まったのだろう、歪んだ笑みを見せて国王やリャクスウェル、そして邪霊討伐隊の面々を見遣る。
「あたしの一言で崩れる脆い信頼関係だったくせに、あたしのせいにするのはお門違いよ! それにあたしは、殺せなんて一言も言ってないわよ! 捕まえなきゃいけないって言っただけで、それ以降はあんたたちが出した結論じゃない! 自分たちは悪くないなんて、そんな馬鹿な言い訳は通用しないわ!」