3
今何してたっけ? ――甲斐君とキスしてました。
「っ!!」
我に返り慌てて彼から離れようとしたが、がっちりと腰に回された腕に阻まれて叶わなかった。恥ずかしい。居た堪れない。何をしていたんだ、自分。
『ごめんよ、ナナエ。もうちょっと周囲の雑音を遮断していてやりたかったんだけどねぇ』
甲斐君の肩越しに見えた風の精霊王は、申し訳なさそうに肩を竦めた。
『あの娘も界渡りを為した者だったな、失念していた。すまん』
火の精霊王が眉間に皺を寄せて唸るように謝罪する。
『アタシたち、あのコきらーい』
『うむ、同感じゃ』
精霊たちがぶぅぶぅと口を尖らせ、地の精霊王がそれに頷く。光の精霊王が支えるシュバルツは苦しそうに前のめりになっていて、その背を水の精霊王が気遣わしげに撫でている。
「あ? 何であの性悪までいるんだ?」
甘いものから鋭いものへと視線を硬化させた甲斐君が、玉座近くの聖子を見て渋面になっていた。しかしながら、私は未だ羞恥の極みから抜け出せておらず、他者の発言内容に反応するどころではなかった。
「あたしはこの国の魔術師に召喚された、歴とした救世主よ! いつまでもどうでもいいことでベタベタと、国王陛下や王太子様たちに対して失礼だと思わないの!?」
『思わないよ、全然全くこれっぽっちも』
怒鳴りつける聖子に樹の精霊王があっけらかんと返す。
『そうじゃのう。別に儂らにとって大事な人間というわけでもないしのう』
『それどころか、ナナエを傷つけた、許しがたい人間たち、ですもの ね』
『そーだそーだぁ!』
地と水の精霊王が続き、精霊たちが同意の声を上げる。
「なっ……!」
『口を開くな、娘。闇の精霊王に響くだろう』
光の精霊王の静かな叱責に、漸く私は意識を外へと向け、シュバルツの容態が悪化したのを察した。
「シュバっ! 大丈夫!?」
甲斐君に腕を緩めてくれと頼み、私はシュバルツの方へと手を伸ばす。力なく持ち上がった彼の手を握り、心を込めて自分の魔力を注いでいく。
(シュバルツが元気になりますように――シュバルツのすべてが、何一つ蝕まれませんように――)
精霊が好むのは、一方通行ではない相互作用的な愛情や思いやりなどの温かい感情で、それと同じくらい質の良い魔力も好んでいる。どうやら私は“狭間”へ行った影響で、大変良質で莫大な量の魔力に格上げされたらしく、美食家も唸る超高級栄養食品に等しい存在である模様。自身では全く実感がないのだが、私の魔力を摂取した精霊たちの喜びようを見ると、強ち間違ってはいないらしい。
彼らの言に依れば、自分のことを想って与えられる魔力は殊更に美味しいらしい。
(シュバ……シュバ……早く良くなって……)
『……ナナエ、有難う。もう、十分だ』
一生懸命祈っていると、しっかりとした口調のシュバルツが手を力強く握り返してきた。顔を上げると、親しみを込めた柔和な笑顔が向けられていた。
『ナナエ、とても助かった』
まだ光の精霊王に肩を借りたままではあるが、倒れそうだった体をしゃんと伸ばせているシュバルツの姿に、ホッと安堵の息をつく。だが、いつまでもここにいたら、また同じことになってしまうだろう。
「気づくの遅くなってごめんね。シュバルツ、みんなも、そろそろ移動しよう。もうここには用なんてないし」
『そうだな。国の中枢だけあって、邪気も濃いようだしな』
光の精霊王の同意に、みんなも頷きを返す。風の精霊王がさっと手を上げ、何故か外界の音を遮断する。
『ハヤトとやら。儂らが今から元の世界に還すからの、身の回りを整理して、こちらに来る準備をしてくるとよい』
『で、ボクのこの花を持っていってー』
地の精霊王に頷いた甲斐君の手に、樹の精霊王がたった今生み出したばかりの花を握らせた。
それは、白い花弁に薄紫の筋が入り、羊歯のような葉のついた蕾だった。花弁は閉じているものの、咲き始めるのはそう遠くない未来だと思わせるくらい、膨らみの大きなものだった。
『こっちの準備が整い次第咲き始めるから、キミの準備が出来たら花を擂り潰してよ。花が咲ききって萎れちゃうと喚べなくなるから、それまでに終わらせてね』
「わかった」
神妙に返す甲斐君に水の精霊王が注釈を加える。
『その花の汁液には、わたくしが 盾術をかけておくので、払ったり、拭き取ったり しないで、こちらにくるまで 手放さないで 頂戴ね』
じゅんじゅつ? と首を傾げた甲斐君に、バリアのことだよ、と言えば納得したように顎を引いた。
「……じゃ、篠塚。また来るな」
「……本当に、いいの?」
未だ不安を拭えない私は、情けない顔で甲斐君を見上げた。結局今でも彼の腕が腰から離れていないのは、己を想ってくれているからだと信じていいのだろうか。
不安を抱きつつ見つめていると、甲斐君はムッと眉を顰めて、顔を近づけてきた。
こちん、と額が合わさって、焦点も結べないほどの近くに彼の双眸を見る。
「俺には、お前より、欲しいものなんて、あの世界には、無い」
一言一句をはっきりと言い切った彼に、再度体中の血液が奔流となって流れていく。耳朶を触られた拍子に目を瞑れば、唇に柔らかな感触と、耳にチュッという軽い音が届く。
「っ!」
「ちゃんと待ってろよ、篠塚。いいな?」
「――はい……」
くしゃ、と頭を撫でられて、直後に甲斐君の体温が遠ざかると、途端にひんやりとした空気が熱を持った自分と彼との間に入る。
――寂しい。
『では、還すぞ』
シュバルツの宣言により送還術が開始され、甲斐君が口パクで「行ってくる」と言うのと同時に、彼の半透明の姿は幻か何かのように一瞬で掻き消えてしまった。
確かに、今の甲斐君は精神体だったから幻と言ってもよかったのだが、精霊王の魔力により実体的な補強をされていたから、透けていたとしても本物に近かった。さっき会ったばかりで、今いなくなったばかりなのに、――もう、会いたい。
『そんなに寂しそうな顔をしないでおくれよ、ナナエ』
『そーだよ、ナナエ』
『すぐ会えるのよ、ナナエ』
『ナナエ、大丈夫よ』
苦笑した風の精霊王の言葉に合わせて、周りの精霊たちが慰めてくれる。あからさまに落ち込んでいた子どもっぽい自分に羞恥を覚え、頭を振ることで気を取り直す。
「ん、大丈夫! じゃあ行こうか」
手を伸ばせば、そこにシュバルツの手が乗せられる。次々と精霊王たちの手も重ねられ、周囲を飛んでいた精霊たちも挙って集まってくる。
『取り敢えず、我の聖域に行くか? 我の聖域ならば人は誰も近づかん』
『そうだな、火の精霊王。その方が闇の精霊王にも都合がいい』
『悪い、助かる』
『うーん……、ボク火の聖域苦手だよー』
『あら。わたくしが 守ってあげてよ、樹の精霊王』
『儂も力添えをしてやろうぞ、樹の精霊王』
『ありがとー』
『それじゃ、行くかい。ナナエ、準備は?』
術式は既に構築し終わって、発動を待っている状態だったのですぐに頷く。シュバルツと契約したことで、空間の掌握率はぐんと上がった。長い距離を転移できない精霊たちも含めて、私には全員と一緒に跳ぶ力がある。
「まっ……待ってくれ、待ってくれナナエ!」
「話を……っ」
「待つが良い、ナナエ!」
「救世主!」
風の精霊王の障壁の向こうで、人間たちが慌てたようにこちらへ近づこうとしていたが、最早私には関係の無い事柄なので、一瞥もくれることなく転移術を発動――しかけたが。
「ちょっと! あたしを無視するなんて酷すぎるんじゃない!? お義姉さん!?」
ほんの少し、シュバルツが聖子を気にする様子を見せたので、一応言葉を交わすことにした。
「……こんにちは、聖子。そしてさようなら」
「何よそれ!? あんたそんな態度とって、覚悟は出来てるわけ!?」
覚悟とは一体何のことだろうか。溜め息をつきつつ、面倒だという態度を前面に押し出して、義理の妹に応じる。
「覚悟って? 私はもうお母さんや仙一さんに気を遣う必要はないし、あなたに何を言われても関係ないんだけど」
「本当にあんたって自分勝手ね! いらない子のくせに、生意気なのよ! だからあっちでもこっちでも邪魔者なのよっ!」
聖子は一応整った顔立ちをしていて、中々の美少女であるのだが、今の剣幕と言葉を見せたら殆どの人が距離を置こうと考えるだろう。こういう態度は常に私の前でしか見せなかったので、彼女は近所でも学校でも評判は良かった。こんなに沢山の人がいる前で本性を見せていることを少しだけ意外に思ったが、別にどうでもいい話ではある。
「そうね。だから今立ち去ろうとしてたのよ」
それを引き止めたのは聖子である。
暗に告げると、聖子は鬼のような形相でこちらを睨みつける。見慣れた表情だが、この顔をしている彼女を相手取るのは、非常に面倒だ。しかし、家の空気を悪くしないようにと気を配る必要性は消え果てたので、もう遠慮する意味はない。
「――もういい?」
今度こそ術を発動しようとすると、リャクスウェルが待ったをかけた。
「待ってくれ! ナナエ! すまなかった!!」
「救世主っ、すみませんでした!」
フィーズが続いて、他の人たちも詰め寄ろうとしてくる。私は意図的ににっこりと笑って。
「何のことでしょう?」
ホッとしたような顔をした彼らに。
「無関係な人たちに謝罪をされる謂れはありません」
線引きをした。
何故か愕然とした表情の彼らに、ささやかな助言を贈る。
「私如きに拘うよりも、“本物の救世主様”のお世話をなさった方がよろしいかと思いますが? まだこちらに来て三、四日しか経っていないのであれば、何かと不便でしょうし。関係のない者に謝っても何の意味もありませんよ。ついでに申し上げれば、親しくもないのに下の名前を呼ばないで頂きたいですね。あまり歓迎したいことではありませんから。ああそういえば噂でお聞きしましたが、ご結婚おめでとうございます、王太子殿下。心よりお祝い申し上げます。“本物の救世主様”がいてくだされば、憂うことも少ないでしょうね。では」
軽く頭を下げて、術を発動する。私の魔力が自分たちを取り囲むように展開されると、五秒もしない内にその場から離れ、火の聖域に到着していた。
嫌味ったらしい物言いだったと自分でも思うが、優しくしてやろうなんてもう思えないのだ。二度と会わないのだし、別にいいだろう。
私を殺そうとまでしていたのだし。
自分の首を狩ろうとしていた人たちを許せるほど、私はお人好しにはなれないのだ。
『ようこそ、我が聖域に』
「ふふ、お邪魔します」
『おじゃましまーす!!』
『うぇえ、あっつ~い……』
火の聖域に招き入れられた私たちは、人間が存在し得ないその場所で、思い思いに寛ぐのだった。
――この日以降、私自身があの場所に足を踏み入れることは、二度となかった。