10話
「じゃ、俺はこれからさっきの奴の後始末してくるから、後は中に居るシスターに聞きな」
「アア、アリガトウ」
(ここが…マザー・テレサが居る教会…)
そこは、思っていたよりもずっとボロボロで、汚くて……けれど、人だけは沢山居る、まさに聞いていた通りの場所だった
(入っていいのか?…まあ、いいよな)
彼は遠慮がちに教会の扉を叩くと、落ち着きの無い動作で周りを見渡しだす
中から返事が返ってくるまでの、ほんの数瞬の間にも彼は足元を見たり指を見たりと、落ち着きが無かった
…彼は気がついていないが、彼の体内にあるエネルギーは既に尽きかけ、このままだと後十数分もすれば完全に生命活動が停止するだろうという所まできていた
彼の落ち着きの無い動作は、無意識のうちに焦りを感じているからに他ならない
「はい、どちら様……まあ、亜人の方だったの、こんなに痩せて…待っていてね、すぐに何か…あ、外は寒いでしょう、中に入って」
教会の扉から現れたのはマザー・テレサ本人ではなく、どうやら普通のシスターのようだった
そのシスターは彼を見るなり、まくしたてるように次々と喋り始めると、中で待つようにと彼に勧める
「…スミマセン」
「?…何を謝っているの?」
「…ア、ソウカ…イヤ、アリガトウッテコトデスヨ」
(そういえば謝るのは日本の文化だったな……完全に忘れてた)
「あら、そう…ってご飯よね、ちょっと待っててくださいね~」
…このシスターは、どうやら見習いか何かなのだろう、コロコロと変わる表情は、威厳と母性に溢れる、彼のイメージするシスター像とはかけ離れていた
しかしそれでも、その明るく元気な態度は、きっとこの教会の扉を叩く者を元気にしているのだろうと、彼は思った
ふと、彼は何かを思い出したかのように、教会の中を見回した
…すると最初は暗すぎて見えなかったが、目が慣れてくると、布団に寝かされ、恐らくはもう助からないだろう、痩せこけた人々の姿が見えた
(知ってるぞ…確か…これ…)
…此処は、実は教会ではない、ただの廃寺院だ
いや、『ただの』という表現は間違っている…ここはマザー・テレサが、身よりのない、生活出来ない、生きていけない、といった人々を看取る為に使っている廃寺院なのだ
そう、ここは【あちら側】でいう『死を待つ人々の家』だ
もっとも、【あちら側】ではヒンズー教の廃寺院、【こちら側】では、教会が殲滅した宗教の廃寺院という違いはあるのだが…ここで看取られる人々には関係ない話だろ
う
(しかし何で教会じゃなくてこっちに…飯が食えるから?俺が死にそうに見えたから?それとも単に道を間違えた?)
「は~いどうぞ、スープとパンですよ、ちょうどお昼時で良かったですね~」
「ア、アア、スイマ…ジャナクテ……アリガトウゴザイマス」
「いえいえ」
(……ま、今は飯だ、飯を食おう)
……ここで出された食事は、とても料理とは思えない粗雑な物だった
スープは何の野菜かも分からないようなカスが数個浮かんでいるだけで、パンは指で千切った程度の量しかない
…しかしながら、それだけの、食べたとも言えないような食事でも、今の彼には涙がでる程のご馳走に思えた
「……イタダキマス」
彼はそう呟くと、スープを一口、口に運んだ
(…味はわかんねぇのに……うまい)
きっと彼のような体でなくとも、このスープの味は分からないだろう、塩分も何もかもが薄すぎるせいで……
彼がこのカスみたいなスープをうまいと思えたのは、恐らくは彼の体が栄養不足のせいだろう
体は分かっているのだ、ここで喰わなければ死ぬ事を
だから彼の意識には今、強烈な飢餓感があり、味覚はあらゆる物をうまいと認識するのだ
そしてそこには、感情論のようなモノは一切存在しない
「あ、お皿は持ってきてくださいね」
「……ナア」
ゴクゴクと勢いよくスープを飲み干した彼に向かい、シスターはそう言い残した
そしてそっとその場を離れようとして、彼に呼び止められた
「え?何か言いましたか?」
「…『マザー・テレサ』ニ会イタイ」
明るい表情で聞き返すシスターに対し、少しためらった後、彼はそう言った
――栄養を補給して、少しだけ思考力が戻ったのだろうか?彼の精神状態は既に何時もの状態に戻っていた――
…だが、返ってきた言葉はあまり良いものでは無かった
「………今は…マザーはどなたともお会い出来ません」
「……何故?」
「マザーは……今、体調を崩され、寝込んでいます…ですから、どなたともお会いなさりません」
体調を崩している……彼はその言葉に対して少しだけ、本人にも分からない程の僅かな焦りを感じていた
「……『マザー・テレサ』ハ今年デ何歳ニナル?」
「…確か…今年で78歳になるとおっしゃっていたような……って何故マザーの年齢を?」
(医療技術も何も無いこの世界で…マザーテレサは元の世界と同じ年まで生きられるのか?)
彼が自身でも気がつかないうちに抱いていた危機感、それは【こちら側】と【あちら側】のズレだった
(いやいや、そもそも何で俺はマザーテレサに会いたいなんて思ってるんだ……会ってどうするつもりだ?まず何で会いたいなんて言ったんだ?)
彼はまだ自分が何故そんな事を口走ったのかを理解していなかった
自身の心の中にある感情に気づけていないのだろう
「……マザーに自分の罪を懺悔しに来る人…結構多いんですよ?」
「?…何ガ…」
「誤魔化さなくてもイイですよ…顔に書いてます」
(…この顔の表情が判るのか、こいつ)
シスターの言った事は間違ってはいない、確かに彼は今、誰かに許しを求めている、彼が自身のミスだと思っている事の許しを…だが、それだけでは無い
彼の中の『マザー・テレサ』に対する想いは、決してそれだけでは無いのだ
確かに許しを乞う気持ちもあるだろう、だがそれは誰の心にもあるものだ
彼がマザー・テレサに会いたいと無意識下で思った理由
――それは、『マザー・テレサ』、彼女にとって、正義とは何か…
そして、自身の行いは果たして間違っていたのか…それを聞きたいという事なのだろう
「無償の愛を人々に分け与えるマザーに聖母の姿を重ねるのも分かります……でも、マザーだって人間なんです!休息が必要なんです!」
シスターの剣幕が徐々に上がりだし、彼が怯み始めたその時
「コレ、シスター・ルカ!何をアナタが勝手に決めているのですか!」
…もう1人のシスターが奥の方から現れ、ピシャリと言い放った
すると最初から居たシスターは途端に勢いを失い……
「え?あ、いや、コレはその~」
「言い訳は結構です!それよりも、ダダさんの体を拭いてきてあげてちょうだい」
「は、はい!」
どうやら最初に居たシスターより、今来たシスターの方が格上のようだ
「シスター・ルカがとんだご無礼を働いた事を、お許しください……マザーに会いたいのでしたら、この建物の裏にある教会の方にいらっしゃいますから、『シスター・マライアの許可を得た』と、教会の方のシスター達に言ってください」
「…イインデスカ?」
「マザーは、ただ休んでいる事を受け入れようとはなさいません、ならせめて、マザーが動かなくともいいように、訪問者が来た場合は通すようにと、シスター達で既に話し合っております」
「ソレジャア、会ワセテモライマス」
□■□
質素な…質素すぎて、本当に人が住んでいるのかと疑ってしまう程質素な部屋…そんな部屋の中で、彼女は寝ていた
(この人が…マザーテレサ)
彼が彼女の事を知ったのは、彼がまだ7歳…小学校1年生の頃に遡る
彼は当時、教室の本棚に置いてある、偉人に関する本が好きな少年だった
エジソンが電球を発明した話や、ライト兄弟の飛行機の制作話を読んでいる時が至福の時に思えていた
そんな彼が、ある日ふと手にしたのが『マザー・テレサ』の本だ
この時は、あまりマザーテレサに対して興味は無かった
比較的新しく、かつ目立った事をしていない彼女の本は、少年の彼には少し難しかったのだ
彼女の偉大さを理解し始めたのは、それから二年経った、小学校3年生の時だ
彼はこの頃、クラス内で陰湿ないじめを受けていた
彼はガタイが良かったので殴られたりする事は無かったものの、クラス内からの無視は勿論の事、陰口、イヤミなどは当然だった
――ちなみに彼がヒーローにハマり、逃避癖ができたのもこの頃だ――
この時、彼は図書室で、再び『マザー・テレサ』に関する本と出会う
不思議だった
何故ここまで出来るのか
何故見知らぬ人の為、自己を削れるのか
何故利益を考えない行動がとれるのか
彼が考え出した答えは、やはりというか…最終的には『善意』だった
彼女の行動は紛れもなく、善意からきているのだと、幼心に理解したのだ
(あの頃、会ってみたいって思ったなぁ……そういえばあの頃もつらかったんだ)
「…あら……どなた?…」
気がつくと、いつの間にかマザーは起きていて、彼に対し、その聡明で慈愛に満ちた両の眼を向けていた
「……申シ訳アリマセン…起コシテシマイマシタカ?…私ハ…タダノ物乞イデス」
「…そう……それで……今日は一体どうしたの?」
「………今日ハ、アナタニ聞タイ事ガアッテ来マシタ」
ほんの少しだけ躊躇ってから、彼は心に浮かぶ事をそのまま言葉にした
「…最近は、アナタみたいな人が増えたわね………いいですよ…何なりと…」
「……アナタニトッテ『正義』トハ、一体何デスカ?」
「ずいぶんと変わった事を聞くのね……教会の聖書に書かれている正義じゃなくて?」
「私ハ、アナタガ正シイト思ウ正義ヲ聞キタイ」
「それなら私は『飢えている人にパンを与える事』だと思うわ…」
即答だった…何の迷いもなく、それが自分の正義なのだと、マザーは答えたのだ
(……マザーテレサらしい答えだな…)
マザーの答えを聞いた彼の頭に浮かんだのは、『アンパンマン』だった
自身の身を削り、人々に分け与えながら戦う、日本を代表するヒーローの一員だ
――幾千の正義を口にしても、飢える人間には一切れパンの方が重い…なる程、本当にマザーらしい正義じゃあないか――
「アリガトウ…ゴザイマス」
「あら?それだけなの?」
マザーはその言葉の後に、『まだ何か言いたそうだけど』と付け加えた
彼がその言葉を聞き、視線を上げると、マザーと目があった
その時の彼には、マザーの目が、まるで全てを知っているんじゃないかと思わせる、不思議な目に思えた
「……失礼デスガ、アナタニ聞イテ欲シイ話ガアリマス……ソノ話ヲ聞イテ、ソレガ正シカッタノカ、ソレトモ間違ッテイタノカ……ソレヲ判断シテイタダキタイノデス」
彼はそう言うと、自身の事をポツポツと語り出した
【あちら側】で生きてきて、気がついたら【こちら側】でこの体になっていた事
自分は凄まじい存在になったと思い、感情のままに行動した事
正義の使者のように振る舞って、結果何人も傷つけ、取り返しがつかないまでになった事
それを心のどこかで喜んでいたにも関わらず、善人ぶって悲しんだ気になっていた事
その事に気付き、心が病み、死のうとしたが、またもや他人を巻き込み、その巻き込んでしまった人物を今も苦しめているであろう事
そして海に棄てられて、流され、漁師に引き上げられて、最終的に現在に至る事
…口下手な説明だったが、マザーは何も言わずに聞いていた
「あなたは自分の今に至るまでを全て間違っていると思っているの?」
全てを聞き終えたマザーの口から出てきた言葉は、改めて自分の行動を確認し、頭を抱える彼には意外なものだった
「確かに何の知識も覚悟も無しで人を導こうとしたのはいけない事…でもね、よく聞いて……最初から完璧な人なんて居ないのよ…アナタはまだまだ若いわ、それこそいくらでも挽回出来る程にね……いい?『後悔』と『反省』は違う事…それを間違えてはいけないわ……今から言うことを、よく聞きなさい」
マザーはそう言うと、目を閉じ、子供に言い聞かせるかのように語り出した
――人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなくし善を行い続けなさい。
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく正直で誠実であり続けないさい。
助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。
気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。
気にすることなく、最良のものを与え続けなさい――
「ア……」
(俺の居た世界のマザー・テレサと…同じ事言ってる…)
「いいですか?アナタは『ヒーロー』になりたかったと先ほど言いましたね……なぜ既に諦めているのです?
今までろくでもなかったから?これからがあるでしょう!
何故そこで諦めるのです!
アナタの話を聞いていて私は思いました、アナタがその体になっていた事には意味があると…ヒーローとは登場するのをずっと待っているものですか?違うでしょう!
ヒーローが居ないのなら、成りなさい!憧れていたのでしょう?夢みていたのでしょう?今その力を持っているのは、他でもない、アナタなのです!」
「イヤ……デモ……」
「……アナタはまだ、ヒーローが好き?」
「大好キデス、愛シテイルト言ッテモイイ」
「即答なのね……ねぇ、アナタが失敗したと思っているのは仕方ないわ……でもね、私はそこで落ち込んで後悔しているより、反省して次に生かした方がいいと思うの……人としてね」
「………」
「……もしもまだアナタが悩んでいるのなら、一度、何も考えずに感情の赴くままに行動するのも悪くないと思うわ…きっと、アナタが今、本当にしたい事が見えてくる筈よ…」
(何も考えず…感情のまま…か)
…元々、彼はあまり頭を使うタイプの人間ではない、そして更に言うなれば、人の不幸を悔やんで悲しくなる程度には人がいい
そんな彼が思い出したのは、アリスという女性の苦痛に歪んだ顔だった
(考えるのを止めて……何も考えず……感情のままに……)
「……マザー・テレサ」
「なあに?」
「…アリガトウゴザイマシタ……チョット…出カケテキマス」
あとがき補足
今回のマザーテレサの考える正義は、作者なりにマザーテレサの正義がどういう物なのかを考えて書いたものです
なので『いや、それはおかしい』と思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、その辺はご理解下さい