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9話

その異形の体に再び意識が戻った時、聞こえてきたのは聞き慣れない男の声だった

「親方ぁ、網に亜人の死体が引っかかってましたぜぇ」

(……話し声が聞こえる……若い…男の声だ……)

数日ぶりに戻った意識は未だに朦朧としていて、その異形の身体も死体と見間違われる程痩せこけ、ボロボロになっていた

「何だと?……こりゃあヒデェな、一体何をどうすりゃあこんな有り様になるのやら……流石にこのまま放り捨てるのもあれだしな…ロック、甲板の上に転がしとけ、帰ったら焼いて埋めてやろう」

「うーッス」

(……目が見えない……どういう状況だ?……おっさんと若い男の会話が……何だろう…イヤに塩の香りがキツい……海に居る気分だ…)

その異形の身体は視力を失い、思考力を失い、数日前の記憶をも失っていた

ただ感じた事、聞こえた事を頭に浮かべるだけ……いや、思考力だけは少しずつ回復しているようだ…まるで、永い夢から覚めた朝のように、ゆっくりと

「見てみろロック、この仏さん、腕や足がミイラみたいに干からびちまって、頭はまるで真っ二つにされたのを無理矢理くっつけたみたいに歪んでるじゃねぇか……こんなモン、普通の死に方じゃねえよ」

「俺としては、この亜人が何て亜人かの方が気になりますけどね…こんなおぞましい亜人、見たことねぇ」

(………何の話だ?……死体だの…亜人だのと……)

「そもそもコイツ、亜人なんですかね?コイツのみてくれならモンスターの方が合ってますよ……亜人って言ったの俺ですけど」

「どっちでもいいだろう、どっちにしろ死体は死体だ……そんな事より早く終わらせてチャチャっと帰るぞ」

「うッス」

人は目が覚めたばかりの時、マトモな思考が出来ない、しかも場合によっては、更にその症状が悪化する事がある、普段と違った時間に眠って目が覚めた時、普段では考えられない程永い間の眠りから覚めた時、そして、意識を一度失ってから目覚めた時だ

(……ここは…ドコだ?……家じゃあ無いみたいだけど…)

たとえ異形の存在であろうと、それは決して変わらない不変のもの、彼の場合は意識を失う直前の記憶、その記憶の一時的な喪失だった

もっとも、既に彼は自身の違和感に気がつき、思い出すだろうが…

(…家?…何を……俺は………ああ、そういう事か…)

「……死ネ…ナカッタノカ」

数日前、頭から胸にかけて切断された所為か、彼の声は、顔は、普段の数倍は歪み、おぞましいモノになっていた

「親方ぁ?何か言いました?」

「ああ?お前が言ったんじゃ――



彼を引き上げてしまった漁師達には、一体彼がどういう風に見えたのだろうか…

数日前に肩から切断された片腕からは、ミイラのように干からびてはいるものの、既に新しい腕が生えている…千切れた足も同じだ

そして極めつけはその顔、頭から胸にかけてついた傷は歪んだ形で修復され、見るも無惨なものになっている

死体であるとしか考えられないその存在が、ふと、立ち上がっていたのだ

「「わあああぁぁぁぁぁッ!!」」

きっと、絶叫しながら気絶する程恐ろしかったに違いない

――――――――

――――――

――――

(俺は一体何がしたいんだ?)

彼はそのボロボロの体で船から飛び立ち、陸地を目指しながら考えた

自分が一体何をしたいのか、何故自分がこんな目に遭うのか、どうしてこんな事になったのか……彼には理解できなかった、いや、普段の…『いつも』の中に居た頃の彼ならば直ぐに指摘出来ただろう、何がいけなかったのか、これからい何を成せばいのかを

彼には余裕が無いのだ、帰る家も、通じる常識も、親しい友も、全て【あちら側】にあるものだ

そして皮肉にも、彼が退屈に感じていた【あちら側】にしか無いのだ

(現実逃避…か…)

彼は、数日前に言われた言葉を思い出していた

とっさの事だったが、確かにアリスと呼ばれていた女性が彼の『死にたい』という願望に対して言っていた感想だ

彼も、普段なら気がついていた事だろう

他ならぬ、『ヒーロー』を愛していた彼なら

『ヒーロー』を目指したのなら、絶対に口にしてはいけない言葉だと…いや、彼なら【こちら側】にきて、自身が言った事、考えた事の全てに対して、普段の精神状態ならば反論していただろう

彼ほど『ヒーロー』を愛しているなら、自身の矛盾にも気がつけただろう

だが、やはりというべきか…今の彼には理解出来ない事であった

今の彼には、余裕も、『ヒーロー』を愛する心も、何も無いのだ

(違う、俺は…悪くない)

彼がとった行動は逃避だった

現実からも、理想からも、自分からも、彼は逃げ出した

それがどんな事か、彼ならば分かる筈なのだ

しかし、彼は考えようとはしなかった

逃避の果てに、彼にどんな事が待っているのか、それは分からない

だが彼には、今、逃避だけが、自身を助けられる事なのだ

親も、友も、家も、何も、全てが無い【こちら側】で彼は一体どう生きるのか……今は、逃げるだけで………


□■□

(にしても…ここ…ドコだ?)

数日前、彼は一時的に死に、海へ棄てられた

『大学』が海に面していた所為だろう

これは、今の彼にとっての幸運を呼び込む事となった

それは、海に棄てられた事で『大学』からずいぶんと遠く離れた場所まで流されたという事だ

【あちら側】でも【こちら側】でも、土地の形や名前はそう変わらない、彼はタイと呼ばれる国から、インドと呼ばれる国の周辺までの距離を数日かけて流されてきたのだ


(…ようやく陸地だ…腹減ったなぁ……そういえばこの体…中途半端にしか直って無いの…もしかして栄養不足のせい?……腹減ったなぁ)


今、彼の体に残っているエネルギーを分かりやすく表現すると、『全力で動いていれば一時間もかからずに生命活動が停止する』というものである

実際、彼が目覚めた理由は、死ぬ前の最後の悪あがきのようなもので、このままでは死にゆく体が、何とかしてエネルギーを摂取しようと半ば無理矢理に意識を覚醒させたのだ


(……腹減りすぎて頭まわんねぇ…)


つまり、彼がまだ『死にたい』と願うのであれば、このまま何も飲まず食わずでいればいいのだ


(何でもいい…残飯でも…生ゴミでも…どうせこの体なら味なんてわかんねぇし)


まあ、今の彼はそこまで知恵がまわるのかと聞かれれば、首を横に振るしかないわけだが…


「…お恵みを……」

不意に、道の物乞いが彼に絡んでくる

その容姿は痩せこけ、髪が抜け落ち、栄養不足なのが目に見えて分かった

ただ、服は綺麗とまではいかなくとも、決して汚い訳では無く、彼はその容姿の差異に奇妙な違和感を抱いた

「……俺カイ?」

「…お恵みを……お恵みを……」

「…………」

物乞いの話を聞きながら、彼はハッとした様子で当たりを見渡した

(周りも…今の俺と同類さんばっかりじゃねぇか)

当たりに見える子供や大人達は皆痩せこけており、此処が貧民街である事を物語っていた

「…お恵みを……お恵みを……」

「悪イケド、俺モアンタト同類ダ」

「…お恵みを……お恵みを……」

(聞こえて無いのか?)

その物乞いを改めて見てみると、目も虚ろで、まるで生気を感じない…1ヶ月程前にある村の住人達が生ける屍になったのを見たこともあるが、まだあちらの方が生気を感じられる程だ

「アノ……」

「新入りさんよ、ソイツはもう駄目だ……じきに死ぬよ」

「…エ?」

彼に話しかけてきたのは、その物乞いよりいくらかましな容姿をした――それでも十二分に痩せているが――物乞いだった


「明日は協会でソイツの葬式だな…ソイツ、マザーから貰ったビスケット、いっつも食わずに売っぱらっちまってたからなぁ…自業自得だよ」

「……マザー?」

飢えた物乞い達が路地に密集して寝転がっている、救いの無い光景…そんな光景と聞き覚えのある単語が彼の中で結びつき、風化しかけていた記憶を刺激した

それが原因なのだろうか、彼は思わず聞き返した

「…アンタ、マザーも知らねぇのかい?何にも知らずにここらに流れて来たみたいだな…マザーは俺達みてぇなカスにでも無償で飯をくれたりする、協会の連中の中でも変わったお方だよ」

「ソレッテ……ナア、ココハ何テ街ダイ?」

彼の記憶の中では既に風化し、忘れていた筈の思い出だった

しかし、何の因果か、今再び彼は思い出したのだ、幼い頃は理解できなかった想いと共に

「街の名前まで知らねえときたもんだ…いいかい、ここはカルカッタだ」

「ジャアッ!……ソノマザーッテノハ…マサカッ!!」

彼の中で、疑惑が確信に変わっていく

彼の知る限り、現実として、もっとも限りなく純粋な善の存在

「おおぅ!何だよ…ビックリさせんなよ…知ってんのかい?マザーの事」

(……世界で一番、優しい人……)

きっと、あの偉大な生き様は【こちら側】でも変わる事は無いのだろう

彼女は間違いなく、【こちら側】でも歴史に名を残す偉人になるだろう

偽善者ではなく、善人

やらない善ではなく、行動する善

「新入りよぅ、今から挨拶に行ったらどうだ?きっとマザーなら歓迎してくれるぜ」

彼はきっと、ここで元通りになれるだろう

疲れきった若い心も、また正義の炎を燃やせるだろう

また『ヒーロー』をこよなく愛する青年に戻れるだろう

きっと、ここに流された事は、彼にとって大きな幸運となるだろう

そう、彼女の名は――

「…マザー・テレサ……」


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