第九話
責任感、というか。
由緒の中に芽生えたその新芽は、まるで倍速で進むビデオのように成長する。
あんなに嫌だと思っていて一時は中絶だって考えたことが、今では嘘のようで。
毎日、仕事が終わると由緒は家に飛んで帰り、炊事をこなし、洗濯をし、繭子に食事を取らせ、洗い物をして・・・・・。
何がきっかけでそうなったのか、当の由緒にすら全く覚えはなかったが―――――――でも、彼はそうした。
頭がそう考えるのでもなく。心が訴えるのでもなく。・・・ただ、体が動いた。動いていた。
繭子の体調は安定期を迎えたからか、ずいぶんよくなり、表情も明るくなった。
妊娠特有の症状で炊きたての米がだめだったが、そんなところも上手くつき合いながら生活していた。
二人は、外食する機会が増えていた。
残念なことに、由緒の料理のレパートリーは乏しかったからだ。
カレー。親子丼。肉じゃが。カツ丼(カツは惣菜屋で買う・・・)。シチュー。
・・・・カレー。親子丼。―――――――
一週間もこなせない。
そんなのっぴきならない理由がきっかけだったが、繭子はご機嫌だった。
一日中、家にいる生活には精神的にストレスが溜まる。
多少、体の不自由はあっても・・・・外に連れ出す。旨いものを、食べる。
これらは彼女をリフレッシュさせた。
きっと、それだけが上機嫌の理由ではないのだろうけれど。
――――――――由緒は、大きな充実感を感じていた。
結婚してからこっち、ろくに繭子に構っていなかった。
結婚してからこっち、ろくに会話もしていなかった。
結婚してからこっち、家のことなど彼女にまかせっきりだった。
由緒は、今、初めて『家庭』を形成したと実感していた。
これまでの自分は、なんて自堕落な夫だったのだろう・・・・。
嫌、・・・夫ではなかったかもしれない。―――――――同居人のノルマも果たしてはいない。
(俺は、何者だったんだろう・・・・)
今更、気付いた。
――――――――――気付かせてもらった。
ものくろに・・・・。お腹の中の我が子に・・・・。
あの日の夜、繭子の胸中を吐露させてくれた、ものくろ。
由緒のした後悔と反省は、しかし彼女の妊娠が分かったことでまた、有耶無耶になって・・・。
再び忘れようとしたその事実。・・・・繭子の苦悩。
あのときの彼は、自身が一番だった。自身の意志が全てに勝っていた。
でも・・・・・それは許されないのだ。
彼は夫であり、父であるのだから。
家族に対しての無関心、甘え、都合のよい解釈も、放棄も、―――――許されない。
『人』が『家族』となって『生きる』ということは、当然自身の一部を犠牲にする必要がある。
彼の父や母は、そうしていたはずだ。
ただ、由緒が気付かなかっただけで。気付こうとしなかっただけで。
子供が出来てからこっち、追われるように毎日を走り続けて、感じた。・・・考えた。
『夫とは』。・・・・そして『父とは』。
守るものが増えれば、・・・・手の届かない“守れないもの”が増える。
今まであった自分自身を形成するエッセンスは犠牲になって当たり前なのだ。
むしろ、それを『犠牲』感じることが未熟で。
何とか手の届く、その中でさらに最善を取捨選択することこそ家長としての責任・・・。
由緒には、繭子と我が子が唯一手の届く“守れるもの”。
それすら、気を抜けば指の間をこぼれ落ちるように失われていく・・・。
あの時、そうだったように。
あと、ほんの少しで彼は繭子を・・・・守ることができなくなっていたように。
我が子は、教えてくれた。
精一杯走り回っても、所詮、由緒には出来ないことだらけだと。届かないことだらけだと。
人ひとりが守れるものは、本当に僅かだ。
由緒には、我が子と繭子だけで精一杯だ。
今は自身にすら、目を向ける余裕などないのだ、と・・・・。
ものくろと、我が子が自分を救ってくれた。
生きていくために必要な、大事な事を教えてくれた・・・・・。
由緒は、『ありがとう』という気持ちで一杯だった。
もういなくなってしまったものくろにも、感謝の言葉を贈りたかった。
彼にとっての“救世主”へ。
そう現実は美しくはないのに・・・・。