第十話
前日は深夜から雪が降り、明け方には止んだものの空気はしんしんと冷え込んでいた。
ここ数日の暖かな日よりはどこへいったのか―――――。
雪はつもりはしなかったものの、外は張りつめるような空気の密度で、窓から見える景色もいつもよりこわばって感じた。
―――――もう使わないと思って仕舞いかけたコートとマフラーを再び取り出す。
手袋は、見つからなかったために諦めた。朝の天気予報が今日の最高気温を8℃と予想している。キャスターの女の子が決まり文句のように「お出かけには暖かくして・・・」と言っていた。
「寒いね。・・・・息が白い」
繭子は布団から顔だけ起こして、言った。
「あぁ。寒いね」
「もう春に入ったのかと思っていたけれど、何だか変な気候だよね」
「そうだね」
由緒は、答えて笑顔を見せる。最近の彼の癖。なんとなくだが、一区切り話すと口角を上げるようなしぐさが自然に出るようになった。・・・・意識はしていないのに。
繭子は、昨日の夜から少し体調を崩していた。熱があるわけでもなく、病気というよりやや倦怠感を感じているようだった。それで昨夜はうどんを作って食べさせた。少しでも消化の良いものを取らせて養生させてやろうと彼は慣れない手つきで料理した。
繭子も作ってもらったものを食べると、自分からすぐに床についた。
ものくろがいなくなってから1週間。
由緒は――――――――変わった。
朝起きると、繭子を見るようになった。
出勤する時、彼女の顔を見てから出かけるようになった。
帰宅すると、靴を脱ぐ前に部屋の中の彼女を探すようになった。
食事の時、彼女の向かいに座るようになった。
寝る前は、彼女の顔を見てから横になった。
翌朝は、また彼女の顔を見た・・・・。
繭子も変わった。
前は話をするとき、3歩は離れていた。
聞いてもらえない前提で話すときは別室から声をかけるようなこともあったが、それもなくなった。
自身の事をよく話すようになった。特に体調のことに関しては、気になることはすぐに由緒に相談してきた。もちろん、由緒にだってわかるはずはないのだが、そこはまず二人で考えてた。わからないならば『誰に助言を得ればいいのか』をまた二人で考えた。
コミュニケーションの量は膨大になった。
そのせいか、由緒は職場にいても繭子の状態がなんとなくわかったし、気になる時は電話をしたり、シフトを調整してもらって早退したりした。以前はそんなことをしたことはなかった。
繭子は意見するようになった。
自分が考えていることを言うようになった。
由緒が正しいか、間違っているか、自分なりの答えを言うようになった。
そうして出てくる言葉は、二人を“良くも悪く”も戦わせた。
二人はケンカをするようになった。
謝るタイミングを見計らうようになった。
仲直りの言葉を探すようになった。
子供の名前を考えたりした。男の子か女の子か想像した。将来はどうなるか夢を語った。気が早いと、二人で笑った。繭子は、出産への恐怖をぽつりぽつりと話すことがあった。由緒は、一言二言励ましの言葉をかけた。・・・・・彼女を、抱きしめた。
ものくろがいなくなってから1週間。
二人は―――――――――――初めて夫婦になれたのかもしれない・・・・・。
そして少しずつ父と母へ、成長し始めたのかもしれない・・・・・。
ものくろがいなくなってから1週間。
もう、あの子には会えないかもしれないと薄々感じていたけれど、二人はそれを口にはしなかった。
ただ、彼は・・・・・・由緒は心の底から感謝していた。その気持ちをここ数日、毎晩のように窓の外に向かって心で呟いた。あの日の・・・・ものくろの後ろ姿を追い掛けるようにして。
大切な事を気付かせてくれて、ありがとう・・・と。
「今日は、早い?遅い?」
「特に残業の予定はないから、いつも通りだと思う」
「そう。・・・・寒いから気を付けて。いってらっしゃい・・・」
「いってきます」
由緒は一度玄関の扉を出てから、再び戻る。
「・・・・どうしたの?」
繭子は怪訝そうに言った。
「いや、生ゴミ。出さないと」
そう言って昨晩のうちにまとめておいたゴミ袋を手にとると、踵を返す。
「それじゃ、いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
玄関のカギを掛け、50mほど先のゴミ集積所に向かって歩き出した。
目の前の道路に40代くらいの女性と、6~7歳の子供が2人で何かを話しているのが目に入った。親子のようだった。
「たっくんっ!汚いから、寄らない!・・・・もう行くよ!!」
「えー、でも、これ、死んじゃうよ」
「いいの!ほっときなさいっ!!」
母親は語気も荒く喋っていて、子供は不満そうにぶうぶうと言っている。
そうして、無理やり母親が子供の手を引き、歩き出す。
かすかに、「保健所が・・・」と言っているのが聞こえた。
二人が立っていた場所に、小さな固まりが落ちていた。
白と灰色と黒の。