異世界転移したわけじゃない。異世界のほうが、俺の部屋につながってきた。
朝、目が覚めた瞬間に思った。
「やばい、遅刻したかも」
反射でスマホを掴む。
時刻は七時十二分。
「……セーフ!」
俺――高槻ユウマは、ベッドの上でがばっと起き上がった。
平日朝の高校生にとって、七時十二分はギリギリ平和な時間帯だ。ここから十分ぼーっとすると地獄が始まる。
寝ぐせのまま制服のシャツを引っ張り、欠伸をしながら部屋を出ようとする。
いつも通り。昨日と同じ朝。たぶん今日は一限が数学で、たぶん小テストがあって、たぶん俺は何も覚えていない。
つまり最悪だが、まあ日常だ。
ドアノブに手をかける。
その瞬間、妙な違和感があった。
金属が、少しあたたかい。
「……誰かさっき触った?」
母さんが起こしに来たにしてはノックの記憶がない。寝ぼけてるのかと思って、俺はそのまま扉を開けた。
そして、固まった。
「は?」
廊下が、なかった。
代わりに広がっていたのは、どこまでも続く青白い草原だった。
草は半透明で、朝露のかわりに光の粒をぶら下げている。空はやたら高く、雲の向こうに輪っかみたいな月が三つ浮かんでいた。遠くには、塔のようなものが逆さまに空へ伸びている。
どう見ても、我が家の廊下ではない。
「…………いやいやいやいや」
勢いよく扉を閉める。
深呼吸して、もう一度開ける。
やっぱり草原。
三つの月つき。
「夢だこれ!」
頬をつねる。痛い。
もう一回つねる。やっぱり痛い。
「夢じゃないの、最悪なんだけど!?」
思わず部屋を見回す。ベッド、机、積んだ漫画、脱ぎっぱなしのパーカー。こっちは完璧に俺の部屋だ。
なのに扉の向こうだけ、異世界。
意味がわからない。意味がわからないが、意味がわからない以外の感想もない。
そのとき、草原の向こうから何かが歩いてくるのが見えた。
人影だ。
長い銀髪。黒い外套。細身。女、だと思う。たぶん。
「誰!? こっち来たんだけど!?」
反射で扉を閉めようとした。だが、向こうの少女は走るでもなく、ただ当然みたいな顔でこちらに近づいてきて、扉の前で立ち止まった。
そして、こんこん、と二回ノックした。
「開けてください。見えてますよね?」
「嫌すぎる!」
「聞こえてもいますね」
「それはそうだけど!」
何この状況。異世界人、距離感が普通すぎるだろ。
しかも声が落ち着いている。やたらきれいな声だ。落ち着いてるぶん余計に怖い。
「あなたを迎えに来ました」
「いや、行かないけど!?」
「ですが扉は開きました」
「開けたけど! 意味わかんないまま開けただけだけど!」
数秒の沈黙。
それから扉の向こうで、少女が小さくため息をついた。
「では説明します。あなたの部屋は、世界と世界の境目に発生した『鍵の部屋』です」
「知らない単語が急に多い!」
「このままだと、こちらの世界は今夜消滅します」
「朝から情報が重い!」
思わず叫ぶ。
今夜消滅。
そんな言葉を、寝ぐせ頭の高校生にぶつけるな。
「……詐欺とかじゃなく?」
「世界滅亡詐欺なんて聞いたことありますか?」
「ないけど、そのぶん新しすぎて怖い!」
でも、冗談には見えなかった。
扉の隙間からのぞく草原は、綺麗すぎるくらい綺麗なのに、どこか変だった。遠くの景色がちらつく。ノイズみたいに、塔の輪郭がときどき崩れる。
動画の読み込みが悪いみたいに、世界そのものが不安定に揺れていた。
「……マジなのか」
「マジです」
声の調子が変わらない。
それが逆に本当っぽかった。
「あなたが扉を開いたことで、可能性が生まれました」
「可能性」
「世界の核を再起動できる可能性です」
核。再起動。
異世界のくせに妙に機械っぽい単語を使うな。
「それ、俺じゃなきゃダメなのか?」
「はい」
「なんで?」
「この扉が、あなたの部屋につながったからです」
「理不尽!」
でも、選ばれし勇者感はゼロだった。
たまたま事故で当たった貧乏くじみたいな説明だ。
「……行かなかったら?」
「こちらの世界は消えます」
「俺の世界は?」
「今のところ無事です」
「じゃあ別によくない?」
「その場合、次にこちら側の崩壊が波及します」
「よくなかった!」
俺は頭を抱えた。
ありえない。
けど、向こうの景色はまだ扉の先にある。消えない。夢でもドッキリでもないらしい。
「一個だけ聞く」
「はい」
「なんで俺なの」
「さっき言いました」
「そういう仕組みの話じゃなくて、もっとこう……主人公っぽい理由とかないの?」
「ありません」
「夢がなさすぎるだろ!」
扉の向こうで、少女が初めて少しだけ笑った気がした。
「ですが」
「ん?」
「普通の人だったから、よかったのかもしれません」
その言い方が少しだけ引っかかった。
「どういう意味だよ」
「この世界を壊しかけたのは、特別な人たちです」
少女の声が静かに落ちる。
「強い力を持つ者。大きな使命を背負った者。選ばれた者」
「……」
「だから今度は、そういうものと無縁の誰かが必要でした」
なんだそれ。
そんな理由で世界を背負わされるのはたまったものじゃない。
たまったものじゃない、が。
扉の向こうの世界が、また一瞬ぶれた。
今度は空の月がひとつ、砂みたいに崩れかけて戻るのが見えた。
「うわっ……」
「時間がありません」
「……俺、学校あるんだけど」
「こちらの世界がなくなれば、学校どころではないでしょう」
「正論やめてくれ」
俺は盛大にため息をついた。
心の底から嫌だ。
嫌だけど、このまま閉じこもってもたぶん後悔する。そういうのはわかる。
「行けばいいんだろ、行けば!」
「助かります」
「その代わり、ちゃんと帰せよ」
「努力します」
「そこは絶対帰すって言え!」
俺が怒鳴ると、少女は少しだけ目を丸くしてから言った。
「……私はリゼ」
「え?」
「名乗っていませんでした」
「あ、そこはちゃんとするんだ」
「礼儀は必要です」
「異世界でもそこは共通なんだな……」
俺は観念して、扉の向こうへ足を踏み出した。
空気が変わる。
ひやりとして、でも不快じゃない。透明な草が足首に触れて、鈴みたいな音を立てた。
「うわ……本当に来ちゃった……」
「今さらです」
「お前、ちょいちょい冷たいよな」
「初対面の男の子の部屋から出てきたので、かなり警戒しています」
「むしろそれ警戒するのそっちなんだ!?」
そんなくだらないやり取りをしている間に、地面が大きく揺れた。
ごご、と低い音が響く。
草原のずっと向こう、逆さ塔の足元から、黒いひびのようなものが空へ広がっていく。
いや、ひびじゃない。
“裂け目”だ。
「なんだあれ」
「崩壊です」
「シンプルに最悪!」
裂け目から、黒い獣みたいな影がいくつも落ちてくる。
犬のようで、鳥のようで、骨格の合っていない怪物たち。赤い目だけがぎらついていた。
「……あれ、倒すの?」
「たぶん」
「たぶん!?」
「私は案内人なので戦闘職ではありません」
「使えな……!」
「今、少し傷つきました」
言ってる場合か。
怪物たちはもうこっちへ向かって走ってきている。
「武器! 武器とかないのか!」
「あります」
「早く出せ!」
「あなたの後ろです」
振り向くと、そこには俺の部屋の扉がまだ立っていた。
異世界の草原の上に、場違いなくらい普通に、俺の部屋の扉だけが。
そして、扉の横に、見覚えのあるものが立てかけてあった。
「……木刀?」
中学のころ部活で使っていた、押し入れの奥に眠っていたはずの木刀だった。
「なんであるんだよ!」
「あなたの部屋は鍵です。必要なものを呼びます」
「もっとマシなの呼べなかったの!?」
「使い慣れているもののほうが適していると判断されたのでは」
「判断したやつ出てこい!」
一番近くまで来た怪物が飛びかかってくる。
考える暇はなかった。
「うおおおっ!」
半分やけくそで木刀を振る。
当たった瞬間、木刀の先から白い光が走った。
怪物が、真っ二つに裂ける。
「……は?」
「当たりでしたね」
「当たりって何!?」
だが、一体倒してもまだいる。二体、三体、四体。
足が震える。腕もがくがくする。でも逃げる方向はない。後ろには扉。こいつらを通したら、俺の部屋まで来る気がした。
「ユウマ! 裂け目を閉じれば終わります!」
「先に言え!」
俺は怪物を避けながら駆け出した。
裂け目は塔の足元で脈打っていた。
近づくほど耳鳴りがひどくなる。頭の中に、誰かの声みたいなノイズが流れ込んできた。
――選ばれた者でなければ世界は救えない。
――力のない者に何ができる。
――お前はただの、どこにでもいる高校生だ。
「うるさい!」
叫ぶ。
「そんなの、知ってる!」
俺は特別じゃない。
運動神経もそこそこ、成績もそこそこ、顔もたぶんそこそこ。漫画みたいな主人公属性なんてひとつもない。
でも。
「だからって見捨てていい理由には、ならないだろ!」
木刀を握り直して、裂け目に向かって振り下ろす。
ぱきん、と音がした。
それは木刀が折れる音じゃなかった。
世界のどこかに入っていた、見えない亀裂が砕ける音だった。
白い閃光が草原を貫く。
三つの月が一斉に光り、逆さ塔が輪郭を取り戻す。黒い裂け目は中央から閉じていき、怪物たちも砂みたいに崩れて消えた。
風が吹く。
鈴のような草の音が、一面に広がった。
そして、静寂。
「……終わった?」
俺がへたり込むと、リゼがゆっくり近づいてきた。
「終わりました」
「ほんとに?」
「たぶん」
「そこまだ曖昧なのかよ……」
けれど彼女の顔は、さっきより少しだけやわらかかった。
「助かりました、ユウマ」
「いや……助かったのはいいけどさ」
折れた木刀を見下ろす。
手のひらがじんじんする。制服の裾も土だか光の粉だかで汚れていた。
「これ、帰ったらどうなるんだ?」
「日常に戻ります」
「ほんとか?」
「はい。ただし」
「ただし?」
「また扉が開く可能性はあります」
「嫌すぎる!」
俺が即答すると、リゼは今度こそ少しだけ笑った。
「でも、次はきっと」
「きっと?」
「寝ぐせくらいは直してから来られるでしょう」
「うるさい」
そう言い返した瞬間、扉が開いた。
向こうには見慣れた自宅の廊下。朝の匂い。キッチンからは、母さんの声。
「ユウマー! いつまで寝てるの! 遅刻するわよー!」
あまりにもいつも通りで、逆に泣きそうになった。
「……帰ってきた」
「はい」
俺は扉の前で立ち止まる。
「じゃあな、リゼ」
「はい。……また、鍵の部屋で」
「その再会の仕方、全然うれしくないんだけど」
最後に彼女は小さく会釈した。
俺もなんとなく手を上げて、それから自室へ戻る。
扉を閉める。
もう一度開ける。ちゃんと廊下だ。
「マジかよ……」
机の上にスマホを置こうとして、そこで気づく。
画面の端に、見慣れない通知がひとつだけ表示されていた。
鍵の部屋:再接続待機中
「待機するな!」
俺の叫びが、平和すぎる朝の家に響いた。
その日、俺は一限の数学に遅刻した。
理由を聞かれても、もちろん本当のことなんて言えない。
ただひとつだけ確かなのは――
朝目覚めて自室の扉を開けたら、そこは別世界だった。
そしてたぶん、これで終わりじゃない。




