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透明な隣人と私  作者:
9/10

第9話 気づきの瞬間

 朝の光は柔らかく、しかし紅の胸は落ち着かずにざわついていた。

 事務所の窓から差し込む光を受けながら、紅は自分の手をじっと見つめる。

 ――手。

 温もりを感じるはずの手が、どこか遠く、触れられない感覚に包まれていた。


 机の上に、子供たちの写真が置かれている。

 男の子と女の子が笑顔で手をつないでいる。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥で強く響いた。


 ――これは、俺の家族だ。

 名前も、声も、温もりも、すべて思い出す。


 だが同時に、違和感も芽生えた。

 家族は笑っているのに、自分の体に触れられない――

 声も、匂いも、温もりも、手に届かない。


 紅は立ち上がり、事務所の中を歩き回った。

 壁に触れ、机に触れ、しかしすべてをすり抜けるようだった。


 ――俺は……死んでいる?


 言葉にならない疑問が胸に響き、視界が一瞬揺れた。

 思い出す。

 息子の笑顔。

 娘の手を握った記憶。

 離婚した妻の怒った顔。

 そして、あの日――事務所で。


 すべてがつながった。

 記憶の欠片が、胸の奥で一つに結ばれた。

 自分がもう、この世の人間ではないことを、はっきりと理解した瞬間だった。


 背後で、水がそっと声をかける。

 「紅さん……気づきましたね」


 紅はうなずき、写真を握りしめた。

 涙が頬を伝い、心の奥が温かくなる。

 ――こんなに泣いてくれる人がいる。

 自分は愛されていたのだ。


 夜、紅は家族の家に足を運んだ。

 離婚した妻と、子供たちがそこにいた。

 紅の存在に気づくことはない。

 しかし、胸の奥に確かに響く笑い声と涙の感触。


 息子の手を握ることはできない。

 娘の笑顔に触れることもできない。

 妻の泣く声を抱きしめることもできない。


 それでも、紅は心から感謝した。

 ――泣いてくれて、ありがとう。

 愛してくれて、ありがとう。


 そして、胸の奥で温かい光が広がる。

 水の弟の影も、遠くでほっとしたように消えていく。

 家族を愛しすぎて、この世に縛られていた存在も、ようやく安らぎを得たのだ。


 紅は微笑む。

 手に触れられなくても、目に見えなくても、確かに愛は届いている。

 胸の奥で温もりを感じながら、ゆっくりと光の中に溶けていった。

読んでいただきありがとうございます。

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