第6話 揺れる記憶
朝、事務所の窓から差し込む光が、昨日よりも柔らかく感じられた。
だが紅の胸は重く、眠ったはずの夜の記憶が微かに残っている。
机の上には昨日の紙切れ。「――逃がすな」と赤く書かれていた。
握りしめると、指先に微かに温もりが残ったような気がした。
――誰の、温もりだろう。
ドアの向こうから、ノックの音。
「おはようございます、紅さん」
水だった。昨日より少し落ち着いた様子だが、瞳には何かを警戒する光がある。
「……昨夜も、何か感じましたか?」
紅は少し迷いながらも頷く。
胸の奥で、目に見えない何かがじわじわと動いていた。
水は息をつき、紅に提案した。
「紅さん……もしよければ、少し私と一緒に歩いてみませんか。思い出す手助けになるかもしれません」
紅は一瞬考えた。
思い出す――それは怖いことかもしれない。
けれど、胸の奥で何かが叫んでいる気がした。
――思い出したい。
二人は外に出た。秋の風が冷たく頬を撫でる。
街路樹の葉がゆらりと揺れ、赤や黄の色が街を染めていた。
水は紅の隣でゆっくり歩きながら言った。
「子供の声や、懐かしい匂いを感じるとき、それは体に残っている記憶かもしれません。焦らなくていい。少しずつ、思い出せばいいんです」
紅はうなずき、歩を進める。
遠くの公園から、微かに笑い声が聞こえた。
6歳くらいの男の子と、5歳くらいの女の子。
声の方向に向かうと、胸の奥が熱く疼いた。
――見覚えがある。
それが誰かはわからない。だが確かに知っている。
紅が声を出しかけると、後ろから冷たい風が吹き、周囲の音がかき消された。
振り返ると、誰もいない。
しかし、視界の端に黒い影が揺れた。
紅は息をのみ、無意識に水の手を握る。
「……ついてきてる」
水は頷き、力強く紅の肩に手を置いた。
「大丈夫。私がいる」
二人は公園の周りを歩き続けた。
紅は思い出せないながらも、体の奥で懐かしい温もりを感じる。
子供たちの声、笑い声、手を握る感触――それらは夢ではない。
事務所に戻ると、窓の外にかすかな影が揺れた。
冷気に混ざり、胸の奥で小さな痛みが広がる。
紙切れに書かれた文字を思い出す――「逃がすな」。
紅は手を握りしめ、心の中で決めた。
――思い出す。
誰が、何が、俺を追っているのか。
夜の静寂の中、紅の背後で影が揺れる。
だが紅の目には、それを恐れるよりも、答えを知りたいという強い意志が宿っていた。
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