第4話 温もりの記憶
事務所の朝は、思ったよりも静かだった。
机の上には昨日の報告書が置かれ、ページの端には赤いペンで書かれた数字や線。
自分の字のように見えるが、書いた記憶はまるでない。
紅は椅子に座り、手を組んで考えた。
昨日、水と歩いた街のこと。
子供の声が遠くで響いたこと。
押入れの奥で感じた冷気――。
思い出そうとすると、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
――誰の声だろう。
見覚えがあるような、ないような、微かな感覚だけが残った。
そのとき、ドアがノックされた。
「おはようございます、紅さん」
水だった。
表情には少し疲れが滲むが、やはり瞳は鮮明で、紅の胸に小さな波紋を落とす。
「……またですか」
紅は少し笑った。
でも、なぜ笑えたのかは自分でも分からなかった。
水は頷き、言った。
「昨日のことですが……あの、少しだけ手伝ってくれませんか。夜、子供の声が聞こえるんです」
紅は一瞬考えた。
夢のような響きだった。子供の声。
でも、思い出せない。
なぜか胸が痛む。
「……わかった」
自然に口をついて出た。
夜になり、事務所の外に出た二人。
街灯が並ぶ歩道を歩くと、秋の夜風が頬を撫でる。
冷たく澄んだ空気は、心地よいようで、胸の奥の違和感を強める。
紅は遠くの公園に目をやった。
遊具の前で、幼い男の子と女の子が笑っている。
6歳くらいの男の子、5歳くらいの女の子。
――声も、姿も、見覚えがある。
胸の奥が締めつけられ、手が震えた。
名前も顔も思い出せないのに、なぜこんなに懐かしいのか。
「……誰だろう」
呟いた紅に、水はそっと手を置いた。
「知っているんじゃないですか?」
紅は振り向いた。
「知っている……?」
水は微笑んだ。
「ええ。忘れていても、体は覚えていることがあります。懐かしい匂いや声、温もり……それが残っている人は、ここにいても感じます」
紅は言葉を失った。
胸の奥で、何かが確かに反応していた。
思い出せない記憶の断片が、熱く疼く。
その夜、事務所に戻ると、ふと窓の外に小さな光が見えた。
子供たちの姿はもうなかったが、どこかで笑い声がする気がした。
紅は手を伸ばした。
届かない。
でも、温もりだけは胸に残った。
――思い出す。
誰の声か、なぜ胸がこんなにも痛むのか。
すべてを、思い出す。
その決意だけが、紅をわずかに前に押し出した。
静かな夜の事務所。
紅の背後で、かすかに物音がした。
しかし振り向くと、そこには誰もいない。
紅はただ、胸の奥の小さな温もりを握りしめた。
そして、知らない間に涙が頬を伝った。
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