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透明な隣人と私  作者:
2/10

第二話「足音のない訪問者」」

 翌朝。

 窓の外から差し込む光が、事務所の埃を金色に浮かび上がらせていた。

 昨夜、いつ眠ったのかも覚えていない。男はデスクに突っ伏したまま目を覚ました。


 首を上げると、机の上にはノートとボールペン。

 そこには「防鼠調査報告」と走り書きされていた。

 自分の字のようだが、書いた記憶がない。

 ページの端には「神崎 水」と名前がある。


「……昨日の女か」


 呟きながら椅子にもたれた。

 自分が誰かもわからないのに、他人の名前だけが妙にくっきり残る。

 女が残していった印象――それは、柔らかな声と、冷たい空気。

 近くにいると、どこか胸の奥が締めつけられるようだった。


 ふと、事務所の奥からコトリと音がした。

 振り向くと、奥の棚の上の金属の名札が床に落ちている。

 拾い上げると、そこには「春夏冬 紅」と刻まれていた。


 男はしばらくその名前を眺めていた。

 紅――。

 読み方がわからない。だが、なぜかその文字を指でなぞると、心臓の奥がズキリと痛んだ。


「……俺の、名前か?」


 そう呟いた瞬間、ドアのベルが鳴った。


 カラン――。


 昨日の女が立っていた。

 白いブラウスに、黒いロングスカート。

 朝の光の中で輪郭が少し淡く見える。

 それなのに、彼女の瞳だけはやけに濃かった。


「おはようございます、春夏冬さん」


 男は思わず身を強張らせた。

 どうして彼女がその名前を?


「……それ、どこで」


「机の上にあった名札です。あなたの名前、こうさん……で、合ってますか?」


 彼女は柔らかく笑った。

 紅という響きが、妙に馴染んで胸に落ちた。

 彼は小さくうなずく。


「それで……今日は?」


「昨日の話の続きです。やっぱり、夜に音がして。今朝、押入れの奥から変な冷気が出てきて」


 紅は立ち上がり、工具箱を手に取った。

 その動作は不思議なほど自然で、体が勝手に動く感覚だった。

 手袋をはめると、昨日よりもずっと落ち着く。

 まるで、何百回も繰り返してきた仕事のように。


「……じゃあ、行きましょうか」


 車のキーを取ろうとして、ふと手を止めた。

 デスクの上のキーに、薄い埃が積もっている。

 ここ数日、動かしていないように見えた。


 それでも紅は気に留めず、水と一緒に外に出た。


 事務所の外の空は、どこか白っぽく霞んでいた。

 街の音が妙に遠い。

 車に乗り込むと、水が助手席で微笑んだ。


「紅さん、運転するの久しぶりなんですね」


「……そう、なのかもな」


 エンジンをかける。

 しかし、音はしなかった。

 代わりに静かにタイヤが動き、風景が流れていく。


 ――まるで、音だけが置いていかれているようだった。


 紅はバックミラーに映る自分の顔を見た。

 昨日と変わらない。けれど、なにかが足りない。

 目の奥の光が、どこか鈍く霞んでいる気がした。


 水の家に着くと、彼女はすぐに靴を脱ぎ、部屋へ案内した。

 押入れを開けると、確かに冷たい空気が流れてくる。

 だが、鼠の気配はない。

 紅は懐中電灯で奥を照らした。埃、古い畳、そして――何か黒い影。


「……これ、鼠じゃないな」


 光を当てた瞬間、影が一瞬だけ揺れた。

 風ではない。

 その場にいるのは紅と水だけ。

 水が一歩近づき、低く囁いた。


「……見えましたか?」


 紅は振り向く。

 水の瞳の奥に、涙が光っていた。


「ねえ、紅さん。あなた……最近、夢を見ますか?」


「夢? ああ……。よくわからない。ただ、誰かが泣いてる夢を」


「……そうですか」


 水は小さく息を吐いた。

 そして、押入れの前で手を合わせた。


「――また、来てるんですね。寂しい人の匂いがします」


「……寂しい?」


 紅の胸に、小さな棘のような違和感が刺さった。

 けれど、すぐにそれは霧のように消えた。


 帰り際、水が言った。


「明日も、来てくれますか? もう少し……調べたいことがあるんです」


「……ああ」


 紅はなぜか断れなかった。

 彼女の声に、何か懐かしい温度を感じたからだ。


 その夜、事務所に戻ると、机の上に誰かのメモが置かれていた。

 「――見つけて」

 その一言だけが、赤いペンで書かれていた。


 紅はしばらく見つめたが、結局、何も思い出せなかった。

 ただ、胸の奥で誰かの泣き声が、微かに響いていた。

読んでいただきありがとうございます。

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