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第2節 タバコとラムネ


 坂本誠一は、左手に火をつけたばかりのたばこ、右手に開けたばかりの瓶ラムネを持っていた。

 どちらも口にするには似つかわしくない気温の昼下がりだったが、季節のずれたこの組み合わせが、今日は妙にしっくりきていた。


 たんぽぽ屋の軒先、パイプ椅子に沈みこむように腰をかけ、誠一は目の前の通学路をぼんやりと眺めていた。紫外線で焼けたアスファルトの匂いに、遠い昔の記憶がじわじわと浮かび上がってくる。


「タバコなんて、まだ吸ってんのかよ。変わんねえな、お前も」


 聞き慣れないが、どこか懐かしい声がした。


 顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。色落ちしたデニムに、昔のまんまのスカジャン。

 目の奥に、夜の街の記憶を隠し持ったような光が宿っている。


「……誰かと思ったら。おい、相沢か?」


「おう」


 相沢修二。

 誠一が高校を辞める少し前まで、よくつるんでいた“昔の悪仲間”の一人だった。


 言葉遣いも、癖のある笑い方も、なにひとつ変わっていない。

 ただ、目元に少しだけ刻まれたしわと、酒焼けのようなかすれ声が、確実に歳月を物語っていた。


「何年ぶりだよ」


「十五、いや二十か? もうわかんねえよな」


 誠一は苦笑し、空いた椅子を手で叩いて見せた。

 相沢は「悪いな」と言って腰を下ろし、二人はしばらく黙って通りを眺めていた。


 小学生の集団が通り過ぎ、ランドセルにぶら下がるキーホルダーが、じゃらじゃらと鳴った。


「ずっと、この町にいたのか?」


 相沢が口を開いた。


「まぁな。アパート継いで、駄菓子屋も始めて……気づいたら四十」


「マジかよ。坂本が店やるなんてな」


「お前の方こそ、どこ行ってたんだよ」


「横浜。建設関係。まぁ、長くは続かねえけどな。最近こっち戻ってきたんだ。オヤジが死んでよ、家片付けに」


「そうか……大変だったな」


 相沢は煙草を取り出し、一本くわえた。誠一がライターを差し出すと、少し照れくさそうに笑った。


「やっぱ、お前ってそういうとこ変わんねえな」


「なあ」


 相沢がぽつりと呟いた。


「覚えてるか? 昔、言ってたよなお前。“駄菓子屋やりてえ”って」


 誠一は、驚いた顔でそちらを見た。


「覚えてたのかよ。そんなの、酔って話しただけの……」


「バカ。あれ、すげえ真面目な顔して言ってたぞ。『子どもが安心して来れる場所、いつか作りたい』って」


 誠一は、返す言葉がなかった。

 胸の奥に、若い頃の熱が、古びた記憶の埃を巻き上げてふわりと浮かんだ。


「……どうだよ。やってみて」


「理想とは、ちょっと違うな」


 ラムネの瓶のビー玉が、ころんと音を立てた。


「結局、駄菓子だけじゃ食えねえ。アパートの家賃で生活してる。たまに思うよ。これって自己満じゃねえかって」


 相沢は煙を吐いて、少し笑った。


「自己満でいいじゃねえか。自己満もできねえ奴のが、よっぽどダサいよ」


 沈黙。風が通り過ぎ、たんぽぽ屋の短いのれんがゆらりと揺れた。


「なあ、坂本。明日、飲みに行かねえか。昔の連中、何人かまだこの辺にいんだ。呼び出せるかもしれねえ」


「……いいな、それ」


 誠一の顔に、ほんの少し少年のような笑みが戻った。


 帰り際、相沢は一度だけ店内をのぞき、「変わってねえな、こういうの」と言って、ラムネを一本、棚から取った。


「これ、もらうわ。……俺らの青春の味ってやつ?」


「それはちょっとダサいな」


「うるせえ」


 二人の笑い声が、たんぽぽ屋に短く響いた。



 その夜、誠一はひとり、アパートの外階段に腰かけていた。

 家に戻るにはまだ早く、店に戻るには少し遅い、そんな微妙な時間。手には缶ビール、足元には空のラムネ瓶。


 見上げた空には、ぼんやりと雲が広がっていた。


 ふいに、昔の記憶がよみがえる。

 あの頃――十五、六の夜。

 誠一と相沢たちは、意味もなく町を徘徊し、橋の下で焚き火を囲みながら、将来の話なんて一ミリもせず、ただ夜を過ごしていた。


 けれど、心のどこかでは知っていた。

 このままじゃ、どこにも行けないって。

 タバコを吸っても、バイクを飛ばしても、朝は確実に来て、何も変わらないことを。


 そんな時だった。

 あの夜、初めて「夢」という言葉を口にしたのは、誠一だった。


「駄菓子屋、やりてぇな……」


 火の粉が、夜風にさらわれた。


「なにそれ、ガキかよ」

 笑ったのは相沢だった。でもその顔には、どこか優しさがあった。


 あの言葉は、なんとなく口にから出た冗談のつもりだった。

 だけど今、二十年以上が経って、それが本気だったんだと、ようやく分かる。



 翌日。夕方、たんぽぽ屋のシャッターを下ろそうとしていたところに、相沢が現れた。


「よぉ、今日飲み行けっか?」


「行けるけど、なんか荷物持ってるな」


 相沢はレジ袋をひとつ掲げた。


「これよ。あの頃、俺らが集まってた橋の下の写真、出てきてさ。懐かしくて持ってきた」


 袋の中から出てきたのは、色褪せた写真数枚と、手のひらサイズのカセットテープだった。


「……これ、ラジカセのか?」


「そう。俺らで録ったやつ。何話してんのか、ほとんど覚えてねえけどな」


「……聞いてみるか、久しぶりに」


 二人は店の奥でホコリをかぶった古いラジカセを引っ張り出し、再生ボタンを押した。


 ジリ……ガリ……とノイズの向こうで、若い声が響いた。


「……なぁ、もし十年後もみんなで集まってたら、何やってると思う?」


 沈黙。そして、誠一の若い声。


『俺は、駄菓子屋やってるかもな』


 その瞬間、二人は顔を見合わせ、思わず吹き出した。


「マジで言ってんじゃん、お前……」


「言ってたんだな、俺……」


 笑いながら、誠一の目の奥に、うっすらと涙がにじんでいた。



 それからの数時間、二人に昔の仲間数人も加わってビールと安いつまみを囲んで、何年分もの話を交わした。


 不良だった日々。

 何者にもなれなかった日々。

 だけど、“夢を見ていた”ことだけは、忘れていなかった。



 帰り際、相沢はぽつりと言った。


「なあ坂本、お前の店さ……俺にも、ちょっとだけ夢見させてくれよ。何か手伝えることあったら、言ってくれ」


「……じゃあ今度、子ども向けのイベントやろうと思ってんだ。屋台とか。お前、ヨーヨー釣り得意だったろ」


「マジかよ……あれ、俺の十八番だぞ」


 二人は、ふふっと笑った。



 タバコの煙と、ラムネの甘さ。

 どちらも、過ぎてしまえば残らない。

 でも――その瞬間だけは、確かに“青春”だった。



※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・出来事とは一切関係ありません。

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