第1節 雨が降った日
平成五年の春は、長雨だった。
ぐずついた空が続き、どこもかしこも湿っぽく、花見の宴も傘を差したまま強行されるような、そんな年だった。
坂本誠一は、タバコの火を指先でトントンと弾き、湿った煙を細く吐き出した。
駄菓子屋「たんぽぽ屋」の入り口脇、雨除けのスチール庇の下に、彼の指定席がある。年季の入ったパイプ椅子に腰を下ろし、コーヒー牛乳を片手に、通学路を見つめるのが午前の日課だった。
店は、自宅の裏にある空き地に建てた。
親から譲り受けたアパート経営は順調だったが、どうしても“自分の店”が欲しかった。子どものころ夢中になったあの駄菓子屋。小銭を握りしめて駆け込んだ、わくわくの空間。
だから店を作った。看板の「たんぽぽ屋」は娘の麻衣が書いた文字だ。たんぽぽの花の絵は、まだ小学三年生だった息子・太一が描いた。小さな誇りのつもりだったが――
現実は、そう甘くなかった。
子どもは減り、親たちはコンビニに流れた。
駄菓子だけでは生活などできず、結局はアパートの家賃で家族を支えている。
「駄菓子屋なんて、趣味だろ?」
かつて友人にそう言われたとき、返す言葉がなかった。
そんなことを思い出していると、急に前の道を走る小さな足音が近づいてきた。
「――っはあ、っはあ……」
傘も差さず、びしょ濡れの中学生くらいの少年が、店先に駆け込んできた。
「雨宿りか?」
誠一が声をかけると、少年は少し肩を震わせた。
警戒心が表情に浮かんでいるが、逃げる様子はない。
「……べつに」
少年はそう言って柱に寄りかかった。制服の袖から水が滴っている。
「中、入るか。ストーブまだ出してる。風邪ひくぞ」
少年は少し躊躇したが、やがてうなずき、店内へ入った。
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「カラン」と鈴の音。
少年が一歩踏み込むたび、濡れた靴から水が床に落ちる。
誠一は店の奥にいた妻からタオルを受け取り、そっと差し出した。
「ほれ。拭け」
「……ありがとう」
少年はタオルを受け取り、髪をゴシゴシと拭いた。
濡れた額から表情が見える。まだあどけなさの残る顔。ややきつい目つき。
「名前は?」
「……」
少年の表情に警戒心がまた少し戻った気がする。
「そうか。じゃあ俺だけ。坂本誠一。この店の主人だ」
少年はコクンと小さくうなずいた。
「ココア飲むか? ポットあるぞ」
「……いいの?」
「客だしな」
コップに注いだ温かいココアを手渡すと、少年は少し驚いたようにそれを受け取った。
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「昔な、俺のガキの頃はこの辺に駄菓子屋が五軒はあった」
誠一は缶コーヒーを開け、懐かしそうに語る。
少年は黙ったままココアをすすった。
「ここも、たまたま空き地があったからな。ずっと夢だったんだ。こんな雨の日に、誰かがふらっと寄れる店。……たんぽぽみたいに、道ばたにぽつんと咲くような」
少年は、小さく笑った。
「変なの」
「そうか?」
「……でも、悪くないかも」
そのひと言に、誠一の胸がじんわりと温かくなった。
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「今日は学校は?」
問いかけると、少年の目が一瞬だけ曇った。
「……行ってない」
声に棘はなかったが、奥に何かを抱えているのは分かった。
誠一はそれ以上は何も聞かず、店内のラジオを少しだけ音量を上げた。
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時計の針が正午を指そうとした頃、少年は静かに立ち上がった。
「……また、来てもいい?」
「ああ。雨が降ってなくても、な。…あ、店に忘れ物の傘あるから持ってけ」
少年はコクンと頷き、ドアを開けた。
外はまだ雨が降っていた。細く、冷たい、春の雨だった。
傘を差した背中を見送りながら、誠一はポツリとつぶやいた。
「名前、聞くの忘れたな……」
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その日以来、少年は何度か「たんぽぽ屋」に顔を出すようになった。
名前も年齢も話さない。
けれど、必ずココアを飲み、少しだけ話をしていった。
誠一は彼を、ひそかに「雨の子」と呼ぶようになった。
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ある日――
「……今日、学校、行った」
雨の子が、初めて自分から口を開いた。
「そっか。どうだった?」
「……嫌だった。けど、先生とだけ話した。……明日も、行こうと思う」
「そうか」
誠一は、その言葉に何も足さなかった。ただ、うれしかった。
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四月の終わり、ようやく晴れた日の午後。
少年は、いつもと同じように店に来て、言った。
「……名前さ、言うよ。俺、涼太っていう」
「涼太。いい名前だな」
少年は照れたように笑った。
その日の夕方、店を出た涼太は、もう“雨の子”ではなかった。
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