プロローグ
「あ、魔法陣」
数学の授業の最中、窓際の一番後ろに座る青年―――柊木 凌心は呟いた。
その視線が落とされた教室の床には、複雑な幾何学模様が幾多もの円を描くように羅列している。
数学教師の嗄れた声に呟きは掻き消された。
だが、またすぐに別の場所から声が上がった。
「え、なにこれ!?」
「うお、なんだ!?」
クラスからは次々に混乱の声が上がる。青筋を浮かべつつも授業を続行していた数学教師でさえ、床の模様に狼狽えるあまり眼鏡を落とす。
場は、もはや授業ところではなくなっていた。
「ま、待っていなさい、いまひとを呼んでくる!」
近視なのか見当違いの方向に指示を出しつつ、数学教師は慌てて眼鏡を拾う。しかし、装着し直した時には、教室に生徒の姿は無かった。
✽♢✽
「ようこそお越しくださいました、勇者様。我々一同、ご歓迎致します」
石造りの落ち着いた城のホールは、赤を基調とした豪勢な装飾で彩られていた。
ステンドグラスを越した鮮やかな夕陽に照らされ、薄紫色の髪の、何処か薄幸そうな少女がドレスの裾を掴み優雅に一礼した。
その先には、先程まで数学の授業を受けていた生徒たち。
凌心もその一人だった。
(⋯⋯?)
理解を越えた光景に、凌心は言葉すら出なかった。
そうして静まり返るクラスだったが、おもむろにある生徒が声を上げた。
「おいおい、こりゃどういうことだよ?」
丸山 剛介。下品なデザインのピアスと下手な剃り込みが、彼の顔面戦闘力を七割ほど削いでいる。
彼は注目を浴びれそうな場面を見逃すまいと声を張り上げた。
「うち、結構な進学校なはずなんだけどな」と怪訝な目を丸山に向けつつも、凌心は静かに耳を傾けた。
たしかに浅ましい生徒だが、この状況については凌心も聞きたかった。
「ええ、ええ、お怒りになる気持ちもわかります。ですが、どうかお収めください。順を追って説明致します」
丸山に臆さず、少女は、無機質さすら感じる平常さでゆったりと答えた。
丸山は、それが気に障ったのかさらに噛み付こうとしたが、少女が被せて話しだしたことでリズムを崩された。行き先を失った言葉は、意味もなく彼の喉を鳴らした。
「私は、イソルダ・アルヴァルディオ・カザンヌと申します。ここカザンヌ神聖国で、第一王女を務めております。以後お見知り置きを」
そう簡潔に自己紹介すると、イソルダは間を開けずに告げた。
「それで、どういうこと、とおっしゃいましたね。簡潔にお伝えしますと、神の意により、あなた方は我が国に勇者として召喚されました。あなた方は、今日から勇者様として皆の尊敬を集め、税で暮らし、魔王討伐という大義に身を捧げられるのです!」
そうしてイソルダの口から発せられた言葉は、そんな一方的な押し付けとも取れるものだった。
丸山を含めたクラスは戸惑うような様子を見せたが、それも一瞬のこと。言われたことの意味を理解するなり、場は喧騒に包まれた。
「ふざけるな! そんなのただの誘拐じゃないか!」「そうよッ! 家に返してッ!」「ふぉおおお!! ステータスオープン! ウィンドウ!」
(いや、一人なんか趣旨違くないか)
どさくさに紛れ先走ったことを叫ぶ生徒に、凌心内心思わず突っ込む。
(まあ、気持ちはわかるけど)
そう共感する一方で、呆れる気持ちも大きい。
それにしたって、さすがに落ち着きがなさすぎる。
こいつら本当に同じ高校生か。
だが、その時ふと自称王女の目を見て、その気持ちはすべて吹き飛んだ。
(⋯⋯怒ってる?)
本当に一瞬だったが、自称王女の可愛らしい仮面が剥がれ、その瞳の奥の本心《怒り》が垣間見えた⋯⋯そんな気がした。
清楚なアイドルの黒い部分を見た気分になり、凌心は眉間に皺を寄せた。
しかし、その黒い表情はすぐに引っ込んでしまった。
王女は憂き世を感じさせない慈しみと淑やかさに満ちた慈愛の表情を浮かべている。
たしかに見たはずだが、その怒りが本物だったのか、それとも単なる見間違いだったのか、果たして凌心にはわからなかった。
「みんな、落ち着こうよ! たしかにいきなりのことで混乱するのもわかる。でも困っている人を放って置く理由にはならない! それに、怒るのは話を聞いてからでもできるだろう?」
それぞれが感情的に叫ぶ中、比較的冷静な声を上げる生徒がいた。
光原 優也、クラスの中心人物だ。朝、教室に入るなり「おはよう」と声を掛け、クラスの大半に「おはよう!」と挨拶を返される。そんな人物だ。
凌心からすれば、こちらはこちらで押し付けがましいという感想以外抱きようのない言葉だったが、クラスメイトたちはそうでもなかったようで、場は少し静かになった。
多くの生徒が光原に耳を傾け始めた。
「まあ、たしかにな」「ちょっと感情的になりすぎたな」「うん⋯⋯光原君が言うなら」
そんな声が飛ぶ。
光原はそれを見て、続けた。
「うん、みんなならそう言ってくれると思ったよ。―――それでイソルダ《《さん》》、話とは何でしょう?」
(いや、イソルダ”さん”って⋯⋯それでいいのか王女)
と言葉遣いについて驚く凌心だったが、それとは裏腹に王女に気にした様子は見られない。
話を振られたイソルダは、変わらぬ品のある表情で恭しく感謝を述べると、改めるように少し真剣な表情を浮かべ、重みを帯びた声で説明し出した。
「端的に言いますと―――私たち人類はいま、忌まわしき魔王の手により滅亡の危機にさらされています。彼らの国―――魔族領は土地が貧しいです。そのため、彼らはより豊かな土地を求め人間の国に攻め入ってきました。もちろん私たちも抵抗を試みましたが、戦力の差は歴然⋯⋯結果は著しくありませんでした」
イソルダは一度言葉を止め一呼吸置く。すると声音を明るくして続けた。
「しかし、私たちにも希望はあった。召喚勇者―――つまりあなた方のことです。もはや、私たちにはそれしか残されておりません。どうか⋯⋯どうか、そのお力で魔王を討伐していただきたいのです」
普通だったら意味がわからないと取り乱すような荒唐無稽な話だったが、対して凌心は冷静だった。
召喚前は娯楽小説を嗜んでいたため、こういった出来事には抵抗がなかった。
凌心は頭の中でイソルダの言葉を噛み砕いた。
まとめると、自分たちは勇者で、求められるのは国を脅かす魔王の討伐。ただ、脅かされているのは人類全体ではない模様。情勢は魔王が有利。
並べてみると、まあクラス召喚モノではよくある設定だ。
それに加えて、召喚された自分たちがあたかも大きな力を持っているかのような口振り。
(となると、次はアレか―――)
「なるほど、よくわかりました。でも、僕たちはただの学生です。そんな僕たちのできることは多くないと思うのですが⋯⋯」
そうそう、やっぱりそうだよな。
凌心は心地よさと納得感に頷く。
「それに関しては心配いりません。あなた方には、勇者としての能力が授けられているはずです。頭の中で『ステータス』と唱えてみてください」
オタク系のエンタメに明るくない生徒たちが訝しげな声を上げる一方で、オタクたちは素早く動き出した。
凌心もオタク側の人間だった。
ここまでがお決まりだよな、とつぶやきつつ、凌心も上擦った気持ちで念じてみる。
(ステータスっ)
――――――――――――
柊木 凌心
階 位:I
レベル:1
【スキル】
・洞察
【祝福】
・異界の勇者
・斧術の才能
【称号】
・異世界人
――――――――――――
「おぉっ」
思わず小さく雄叫びを漏らす。
これが自分のステータスか、と、胸の奥から何か熱いものが押し寄せる。
高揚に身を焦がされつつ、凌心はそれを読み込んで行く。
レベルというのは非常に唆る。馴染みがある分、わかりやすく心をくすぐる。
スキルに洞察とあるものだから分析系かと思ったら、祝福に斧術という明らか脳筋な要素。アンバランスだ。
だが、それもいい。
そうして見ていくと、特定の項目はタップすると説明が出せることに気付く。
凌心は素早くタップした。
―――――――――――
・異界の勇者
『鑑定』『インベントリ』を習得
神聖力適性、魔法適性
―――――――――――
(おっほ)
ひとまず一番気になったところを見てみると、そこにあったのは何とも素晴らしい文章。
先ほど勝手に勇者認定された時の理不尽さなど、もはや完全に忘れていた。
すっかり夢中になった凌心は、次に【スキル】項目の説明も見てみる。
―――――――――――
【スキル】
習得した技術が一定の水準に達した証
技術に補正が掛かる
―――――――――――
補足には、異世界から来たため最も得意な一つだけがスキル化されるとある。
つまり、凌心が15年間で培ってきた技術の中で一番練度の高い技術は『洞察』というわけだ。
にしても⋯⋯。
(洞察⋯⋯まったく身に覚えがない)
そうしてしばらくステータスを見ていると。
およそこの場の全員が自分たちのステータスを確認し終わったタイミングを見計らって、イソルダは歓迎会があると言った。
クラスは使用人に案内され別のホールに移動した。
そこは、まさしくパーティ会場と言った場所だった。
洒落た食器や机が立ち並び、豪華な食事が食欲を唆る匂いを放っている。
生徒たちは友人と料理を見定めたりパーティに心を踊らせたりして騒ぐ。
そんな友人こそいないものの、凌心もテンションを上げていた。
ジューシーな肉、レアステーキ、骨付き肉⋯⋯。
どれも上等なものばかりだ。
心躍らないはずが無い。
さてさて、何から食べようかな⋯⋯。
そう吟味していると、凌心はその肉の群の中でひときわ大きな力存在感を放つ肉を見付けた。
それは、紫色の断面をしたをしたレアステーキだった。見るからに毒毒しい見た目。しかし、そこには形容し難い引力があった。
思わず喉を鳴らす。
焼き目から加減はレアとわかるが、何の肉か、どんな味がするのか、まったく見当すらつかない。
凌心は決して博識というわけではないが、おそらく元いた世界には無かった肉だろう。
好奇心と食欲に衝かれ、凌心は真っ先にそれに手を伸ばした。
「ぁ⋯⋯」
トングを手に取ったところで、横から思わず漏れたといったような掠れた声が聞こえてきた。
「ん?」
見ると、そこには黒髪を姫カットにした真面目そうな生徒がいた。
名前は桃木 ひより。隠れファンが多いかなりの美少女ではあるが、あまり他人に興味がない凌心は、彼女が委員長である以外の情報を持っていなかった。
名前何だっけ? と思いながらも、人当たりの良い微笑を浮かべ《《対応》》する凌心。
「あぁ、ごめん、委員長も欲しかった?」
その視線がトングと凌心を行き来しているのを見て、凌心はそう判断した。
「あ、えっと、まあ⋯⋯」
「はい、先いいよ」
「いっ、いいのっ? ⋯⋯あ」
反射的に食い付くひよりだったが、言ってからがっつき過ぎたことを自覚し恥ずかしそうに俯いた。
よく見ると、その耳はほんのり赤くなっている。
食いしん坊だと察し凌心が軽く吹き出すと、ひよりはさらに赤くなった。
居た堪れなったのか、逃げるように踵を返そうとするひよりだったが。
「ちょっと待って」
凌心に静止にされ、動きをピタリと止めた。
(面白いな)
そう思いながらも、凌心は「はい、これ」とひよりの持つ皿に肉を盛った。
「う、うぇ?」
ひよりは本来常に冷静な性格で、普段の態度もキリッとしたものなのだが、この時は恥ずかしさやら気まずさやらでいっぱいだった。
うまく反応できず、情けない声が上がる。それは、ひよりをある程度知る生徒が見れば仰天するような態度だった。
(次は、と⋯⋯)
そんなひよりとは対象的に、凌心の興味はすでにひよりから肉に戻っていた。
狼狽するひよりを背に、凌心は肉を物色した。
✽♢✽
(あ、お礼⋯⋯)
気が付いたら凌心は去ってしまっていた。
ひよりは自分がお礼を言っていなかったことを自覚した。
だが、自覚はしたものの⋯⋯なぜか話し掛けづらい。
いまさらお礼して『え? あ、ウン⋯⋯いま?』なんて言われたら⋯⋯襲ってくる羞恥やら気不味さやらは耐え難いものだろう。
そうやって白い目で見られて、嫌われてしまうかもしれない。
考えるだけで恐ろしい⋯⋯。
想像は嫌な方向に進み、結局ひよりは声を掛けるタイミングを失ってしまった。
恥ずかしい。
傍から見たら、自分はさぞ礼儀知らずだったことだろう。
(次会ったら、ちゃんとお礼言わないと⋯⋯!)
ひよりはそう頭に刻み付けた。
(⋯⋯それにしても)
嬉々として肉を盛り付ける凌心を見る。
(いままで、事務的なやり取りしかしたことが無かったけれど⋯⋯あんなひとだったのね、柊木くん)
委員長の頭には、凌心の存在がやけに印象深く残った。
✽♢✽
(そういえば、結局何の肉なんだろ?)
肉を咀嚼しながら、凌心はそれについてわりと真剣に考えていた。
(これ、解消しないと延々と苦しむやつだ⋯⋯)
そう思ってしまい、考えずにはいられなかったのだ。
味は普通のレアステーキと変わらないが、鼻を抜ける風味は爽やか。その何とも言えない炭酸感が癖になる味わいだ。既知のものだとハーブに近いが、この紫の肉にはハーブにはない斬新で華やかな刺激があった。
(そうだ!)
そこで突如、凌心の頭にあるアイデアが過った。
―――鑑定を使えば、わかるのではないか?
そんな案だ。
ちょうどステータスの実験もしたかったし、兼ねて二つのことをできる。一石二鳥の案だ。
なぜさっきまで思い付かなかったのか不思議なくらい。これ以上ない適材だ。
そうと決まれば、さっそく⋯⋯。
「”鑑定”」
初の試みではあったが、たしかに『ハマる』感覚があった。腑に落ちると言ったらいいのか、まるで初めから知っていて、スキル名を口に出すことで使い方を思い出したかのようだ。
そんな感覚とともに、頭の中に肉の情報が浮かんだ。
――――――――――
コアヒレレア(睡眠薬入り)
正式名称:紅核の霊肉ステーキ
〜灼きし大地の誓い〜
ベヒモスのヒレを使った料理。
かつて大陸一と言われた料理人が生涯を掛けて作り上げた料理。
世界でも十本の指に入る料理人しか作れない。
※毒入り
――――――――――
(意外に細かく出るな)
軽く瞠目する凌心。
もっと、◯◯のレアステーキ、毒入り、みたいなぶっきらぼうな説明を想定していたため、この性能は意外だった。
(しかも、毒入りとか出るのか。もし万一盛られたとしても気付けるだろうし、けっこう、便利⋯⋯いや、は?)
思考が止まる。
身体の中に寒風が吹き込んだような気分だ。
(毒入り? 睡眠薬?)
思いもしなかった情報。
一瞬、述べられたことが理解できなかった。
よもや、こんな情報が出てくるなど予想だにしなかった。
凌心は、安全性に関してはこのガザンヌ神聖国は大丈夫だと思っていた。
なぜならば、この国は⋯⋯この国はたしか⋯⋯
(⋯⋯あれ? そういえば、何でそう思ったんだっけ?)
―――猛烈な違和感。
何かがおかしい。
記憶と認識のズレ。
異世界召喚に勇者と魔王、ステータス、そして鑑定。
そもそも、どうして自分はこんな非現実的なことを、こうも容易にに受け入れられている?
(⋯⋯気持ち悪い)
きっと、気の所為じゃない。
「大丈夫ですか?」
不意に、近くに控えていたメイドが話し掛けてきた。
「⋯⋯え? 俺ですか?」
思わず聞き返す。
憔悴で上擦った声が出た。
「はい。その、顔が青かったので」
「⋯⋯」
どうやら、顔に出ていたようだ。
根拠もなく、毒に勘付いたことを看破されたのでは、と高鳴っていた心臓がわずかに落ち着く。
だが、状況に変わりはない。
凌心は少し冷静になった頭を働かせた。
「すみません、トイレはどこですか?」
「! ああ、なるほど。⋯⋯配慮が足りず申し訳ありません。廊下に出て頂いて、突き当り右手にあります」
青い顔をトイレを我慢していたからと解釈し、慌てて、恐縮したように説明するメイド。
そう仕向けたのは自分とはいえ、非常に不本意な間違われ方だな⋯⋯。
凌心は胸中でそんな我儘を言いながらもメイドに軽く会釈すると、足早にトイレへ向かった。