捨てた彼は捨てられていた
しかし今更そんなことを説明しても意味の無いことだ。
ここからどうしようか、とルーナが思考をめぐらせたときだった。
「レディ。待たせて申し訳ない」
その声は大きくないのによく通る。濁りの一切ない透き通った響の声の主は、寸分の狂いも無い動きでルーナの前に跪いてその手を取った。
「いえ、私が早く来ただけよ。貴方はお仕事終わりでしょう?そんなに急いで来なくてもよかったのに」
約束の時間にはまだ少し早い。息を切らす様子は無いが、慌ててきたのだろう、髪が少しばかり崩れている。ルーナはそっとその前髪に手を伸ばした。
不自然に絡まりあっていた髪がさらりと崩れて落ちてくる。
「貴女に一秒でも早く会いたくてね」
照れたように微笑む。その外見は輝くようで、その表情や指先一つとっても完璧だ。透き通るよくな白金の髪にエメラルド色の瞳。美術品のような完成された容姿がそこにはあった。
最高級の物で常に磨き抜かれているルーナの肌よりも美しく見えてしまうのは気のせいではないだろう。
「役者の……」
ほぅと息を吐くように呟いたのは平民の少女であるトランだ。
「ルルーディは流石の人気みたいね」
「それもこれも支援してくれるルーナ嬢達のおかげだよ」
優しく掬いとられたルーナの指先に唇が優しく触れる。
「どうして人気劇団の有名俳優がここに……?」
見目麗しい男性俳優のみで構成された異色の劇団ルルーディ。きちんとした舞台での観劇はそれなりの値段で、絶大な人気もあわさってチケットを取る事は簡単では無いが、その容姿を称える絵姿は平民まで出回っている。
中でも今目の前にいるノクス・ラパンスは劇団の中でもトップを争う人気だ。順位を争うのは野性味溢れるワイルドなタイプの俳優なので、ルーナはそこを比べるのはどうなのか、とずっと疑問に思っている。
「今日は彼に食事に誘ってもらったの」
「彼女は律儀に婚約者がいるからと何度誘っても頷いてくれなかったんだが、やっと別れたと聞いてね、すぐにデートを申し込んだんだ」
ルルーディはアーベンドルク家が支援している劇団だ。新しい演目が始まる時には必ず招待されるし、舞台成功を祝う食事会もアーベンドルク家で主催して行うこともある。
「記念日でもなんでもないのにここの一番上のコースを予約したなんてやりすぎよね」
ルーナだって特別な日くらいでしか頼まないような食事だ。呆れたように言うルーナに支配人はにこりと笑った。
「素晴らしいことだと思いますよ」
「そりゃ貴方にとってはね」
通常でもかなりの値段のレストランでの特別コースだ。支配人としてはルンルンだろう。
「いえ、もちろん売上として嬉しいお話ではありますが、それ以上にお嬢様への気持ちが伝わってくることが嬉しいのですよ」
「何度も断っていた食事だから気合を入れてくれたのだろうけど、奮発してくれたものだわ」
「僕のお金は普段の使い道も無いし、貴女のために使えるなら恐悦至極というものだよ。有り余っているお金はこの為にあるんだと心底嬉しいくらいだ」
舞台俳優と言うだけあってノクスの声はよく通る。無意識なのか体の動きも視線を誘導させられているような気がしてくる。
「ルーナ・アーベンドルク嬢。貴女ほど素敵な女性を僕は知らないよ。今日は楽しみで眠れなかった」
「あら、寝不足で舞台の上で躓かなかった?」
「もちろん、怪我なんてしてこの食事に来れなくなったらそれこそ一大事だ」
大真面目に頷くノクスにルーナはクスクスと笑う。
少しばかり大袈裟な反応だが加減が上手いのか嫌な気分にはならない。嘘偽りだとも思えない程よい褒め方がルーナは嫌いでは無かった。
「正直言って、彼女を手放した君はどうかしていると思うよ。アーベンドルク家の唯一のご令嬢である彼女は世界一の優良物件と言える」
「まあ、そうなるでしょうね」
言い方はさておき、分かりやすく言うならば、そして事実を告げるならばそれで間違いないだろう。
謙遜する必要すら感じない真実だ。
「この完璧な美貌を惜しむことなくさらに磨き抜き、王族すら頭を下げるほどの財力にそれに伴う権力と人脈。更にはその手腕も性格も完璧。アーベンドルク家の名前が無くても最高の女性だ。惚れない男がどこにいる」
「相変わらずリップサービスがじょうずね。さすが役者」
「我が劇団がおべっかを使わないのはあなたもよく知っているだろう。美貌と演技力は全力で発揮するがそれを知名度のために振りまいてやることはけっしてない」
「それはもちろん知ってるわ。媚びは売らない。枕もしない。愛想も振り向かない。最後のは改めて考えると最低ね」
口にしてみると中々酷い劇団だ。
だがそれが許されている。それは劇団員のほとんどが高位貴族の三男や四男であることとアーベンドルクの名前が後ろ盾になっているからでもあるだろう。
それに加えて絶対的な技術と人気。
「だからこそ、この口から出るのは全て貴方への本心だよ」
熱烈な愛の告白だが、ルーナにとっては少しばかり擽ったい感覚を覚えるだけ。
自身の色恋にどこか冷めているルーナに支配人がヤキモキとしていることには誰も気づいていなかった。
「王族が頭を下げるだなんて、そんなまさか……」
アーベンドルクに属していた間は自分も王族に一目置かれるような存在だったということに気づいていないヘイリットに、ルーナは「事実よ」とあっさりと答えた。
「本来は王家に懐妊の知らせがあれば貴族はそれに合わせて子供を作ることが多いけれど、アーベンドルク家の懐妊の知らせがあれば貴族はもちろん王族さえもそれに合わせて動くの。王子殿下や王女殿下が私と同じ歳や少し歳下なのは貴方も知っているはずよ」
しかも同い歳の王女殿下の誕生日はルーナよりも少し遅い。
不敬罪にすらならない常識だというのに、ヘイリットもトランも驚きで目を見開いていて、ルーナの方が驚いてしまった。
「ああ、そういえばあの席を使いたかったんだったかしら?別にいいわよ。両親も今日は違う店を使っているから」
「えっ」
「料金が払えるなら、だけど」
「バカにしないでくれ」
「バカにしたつもりはないんだけど。ねぇ、メニューを見せてあげて。この店は普段は値札なんて見せないのだけど、料金付きのメニューもきちんと用意してあるから」
通常、この店を利用する人間は金額なんて気にしない身分の者ばかりだ。だがプロポーズに使用したいと奮発する低位貴族や中流階級の人間は値段と相談したいときがある。そのための物だ。
事前予約、前払い制。当日や前日キャンセルの場合は返金無し。そんなシステムでこの店は回っている。
「なんだこの値段は。今までこんな高くなかっただろう」
金額の記載されたメニューにヘイリットは訝しげに声を発した。
「今までの支払いはコース分我が家が事前に払っていたから。貴方が今まで払っていたのは追加のデザートやコース外のメニューの分だったはずよ」
ヘイリットの両親はその事を理解して毎回律儀にルーナにお礼をしに来ていたのだが、ヘイリットはそんなことにも気づいてはいなかったらしい。
支払いの際にさりげなく追加分の料金は、と言われているはずなのだが。
その値段を見て席を使うならどうぞご自由に。後のことは支配人に任せよう、とルーナはタイミングよく差し出されたノクスの手を取ってヘイリットに背を向けた。
「次はその男の人をお金を使って自分の物にするんですか?」
小さく呟かれた言葉にルーナは顔だけ振り返る。声を発したのはトランだが、ヘイリットも睨むような視線をルーナに向けていた。
なぜそんなにも敵意を向けられるのか、とルーナは困惑するしかない。
まだルーナの嫌がらせだ、と思っているんだろうか。
「私自身は恋愛に憧れがあまり無いのだけど、我が家は基本的に恋愛結婚。もちろん両親だってそう。だから愛し合うために手を取るあなたたち二人のことは応援しているのよ」
ただ、もうルーナと関係の無い二人に資金援助をする理由はなく、アーベンドルク家の名を貸す必要もなくなったからルーナが手を貸すこともしない。応援するのは気持ちだけ。
正直お金は有り余っているが、困っている全ての人間に金をばらまくような慈善業者では無いのだから当然だ。
「それに、彼にはお金なんて渡してないわ。今夜の支払いも私じゃないの」
ね、とノクスを見れば、ノクスは甘い微笑みを浮かべた。
「念願叶ってこちらから誘ったデートなんだ。僕が支払うのは当然のことだろう」
「もちろん予約もしてもらったし、料金も全額よ。あなたは私のためにレストランを予約してくれた事なんてなかったけど、彼女のためにも食事の場所はしっかりと事前に予約して押さえておくことをオススメするわ」
それじゃ、と今度こそ歩き出そうとしたルーナにヘイリットが手を伸ばす。
「まってくれ」
しかしその手はノクスによって軽く振り払われたら。
「せっかく漕ぎ着けたデートの邪魔をしないでくれるかな」
「……なんで役者なんかがそんな大金を持ってるんだ」
侯爵家の自分でも驚くような金額を、と言いたいようだ。
「あの劇団は貴族の三男四男が揃っているから、みんな個人資産を持っているし、役者として売れっ子の彼はその収入だけでもかなりの額よ」
劇団ルルーディはそれだけ売れている。
「あなたも教えたうちの仕事を学んで手伝ってくれたら個人資産をたくさん集められたでしょうに。支払いが終われば席は自由に使ってちょうだい。眺めが良くてさりげなく周りの視線を遮っているからカップルにも大人気の席なの。楽しんでね」
恋人の逢瀬には最高の席だと、この店を支援しているルーナも自慢できる。
そんな本心からのルーナの言葉に、ヘイリットは絶望したように力無く手を下ろした。
「どうしてだ。俺は、自由が欲しかっただけなのに。どうして何もできないんだ」
「貴方がお金を不要だと選んだんじゃない」
「そんなことないっ……」
いいえ、そうなのよ、とルーナは言葉を続けた。
「我がアーベンドルクの名前はそれだけで黄金と同等の価値があると言われているの。そして貴方はその黄金を手放した。アーベンドルクという黄金を手にしながら恋人との愛を楽しむ方法だってあったのに」
「そんなもの許されるわけないだろう」
「私は何も言っていなかったじゃない。ずっと許していたわ。私は別に結婚相手は誰でも良かったもの。貴方が行動しなければ多分結婚していたでしょうね。貴方の種が無くても、私の子がアーベンドルクを継げばそれでよかったんだし」
アーベンドルクの一員として、自由に生活し続けることはできたのだ。説明はしていなかったけれど。
それを要らないと自ら言い出したのはヘイリット自身だ。そしてその恩恵を受けられたはずのトランでもある。
「私のお金は有り余っているけど、いらないって人に押し付けるなんて意味が無いことはしないわ。ごきげんよう。お幸せに」
ゆっくりと店の奥へと足を進めるルーナとノクスが再び振り返ることは無かった。
取り残されたのは愛を選びとったはずの一組のカップルだけ。