湯けむりの向こうに
数日後。
カノンと恋は、緑に包まれた山あいの温泉街に降り立っていた。
「わぁ……空気、ぜんぜん違う」
恋が深呼吸して、満ち足りた表情を浮かべる。
ふだんの喧騒とは無縁の静けさ。川のせせらぎと鳥のさえずりが、旅の始まりを告げていた。
「ほんとに週末に空いてたのが奇跡みたい」
「“奇跡の宿泊”って名前でもよかったかもね」
冗談を言いながら、二人は古風な佇まいの旅館『湯ノ嶺』の暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ。神谷様と恋様ですね」
玄関先で女将が迎えてくれる。
館内は木の香りに包まれ、どこか懐かしく、心がほどけるような空気。
通された部屋には、畳の匂いと障子越しの光、そして――
「露天風呂、ある……!」
部屋の奥、専用の小庭に設けられた小さな岩風呂。
夕陽が差し込むその湯船は、まるでふたりのために用意されたようだった。
「……来てよかったね」
「うん」
荷物を置きながら、ふたりはそっと手を繋いだ。
まだ旅は始まったばかり。けれど、ここにはもう――忘れられない思い出の気配が漂っていた。
***
ふたりは浴衣に着替え、部屋付きの露天風呂に向かった。
木の扉を開けると、湯気の向こうに岩風呂がぽつんと現れる。
ほんのり硫黄の香りが漂い、空気には春の匂いが混じっていた。
「わ……ほんとに貸し切りだ」
恋が目を丸くする。
「うん。見て、夕日も反射してる。……最高じゃん」
カノンが湯縁にタオルを置き、少し照れたように笑う。
ふたりでゆっくり湯船に浸かると、肌にじんわりと熱が染みてきた。
心まで解きほぐされていくようだった。
「ねぇ、カノン」
「ん?」
「こうして一緒に温泉に入ってるの、不思議だよね。だって、前は……」
「……そうだな。男だったからな、俺」
ふたりは目を合わせて、ふっと笑った。
「でも、いまは普通に“夫婦”だな」
「うん。しかも、ママとママ」
恋はお腹にそっと手を当てる。
「この子が生まれて、家族が増えるって……まだ信じられない。でも、ちゃんと感じてる」
「私も。変わったけど、変わらなかったものがある」
「何?」
「恋を好きな気持ち。ずっと変わらないし、これからも増えてく」
その言葉に、恋は頬を赤らめながらうつむいた。
「ずるいなあ、そういうの」
「素直に言ってるだけだよ」
そっと肩を寄せ合い、ふたりはしばらく黙ったまま空を見上げた。
春の夜風が湯けむりをやさしく揺らしていく。
世界にはふたりしかいないような、静かな時間だった。
***
夕食は部屋で。
旅館の料理はどれも美しく、箸をつけるのがもったいないほどだった。
鯛の塩焼き、旬の山菜、土鍋で炊かれた白米、湯葉と豆乳の椀もの――
「……美味しすぎて泣きそう」
「ほんと。こんなにゆっくり食べるの、久しぶりかも」
食後のデザートをつまみながら、恋が小さくため息をつく。
「帰ったら、ベビーグッズとか見に行こうか」
「うん。名前も、少しずつ考えたい」
「男の子だったら? 女の子だったら?」
「うーん……名前、悩むなぁ。でも、どっちでも可愛いんだろうなって思う」
「そりゃ、恋の子だからな」
「カノンの子でもあるでしょ」
ふたりは見つめ合って笑った。
ゆっくり、じっくりと育てていく――そんな未来が、確かに見えた夜だった。
その晩、布団に入って手を繋いだまま、ふたりは小さく話をした。
これまでのこと。これからのこと。
出会い、戸惑い、決断。そして今、ここにいる理由。
どんなかたちであっても、二人で紡いできた日々が、未来へと続いていく。




