みんなの名前、みんなの気持ち
「この前はありがとう!」
月曜の朝、教室に入った瞬間、声をかけてきたのは――土曜日、一緒に《ドンク》へ遊びに行ったクラスメイトのひとり、みうだった。
「こちらこそありがとう、みう! 楽しかったよ」
「……名前、覚えてくれたんだね」
「もちろん!」
にっこりと笑い返すと、みうも嬉しそうに頬を緩めた。そのまま二人で談笑していると、他のクラスメイトたちも次々と寄ってきた。
「私のことも名前で呼んで!」
「俺の名前もちゃんと覚えてくれよ!」
賑やかに名前を教えてくるみんなに、私は「覚えるの頑張るね!」と返した。嬉しいけれど、これはちょっとした覚悟が要るなと思う。
「静かにしろ!」
教室に担任の先生が入ってきて、場の空気がピシリと引き締まった。
「ホームルームを始める。日直は号令!」
「はいっ!」
号令をかけたのは見慣れない生徒。誰だったかしら。まだ全員の顔と名前が一致していない自分に、少し焦りを覚える。
「ありがとう。さて、来月からプールの授業が始まる。水着を忘れないように」
先生の連絡にざわつく教室。
「もうプールの時期なのね……」
私はぽつりとつぶやいた。
「かなは転校してきたばかりだから知らないかもだけど、うちの学校、プールが校内にあるから他よりも授業始まるの早いんだよ!」
と、みう。
「早すぎじゃないかしら? まだ6月よ?」
「早いほうがいっぱい泳げるし楽しいじゃん!」
「……それもそうね」
「放課後、プールに案内するね」
「ありがとう、助かるわ、みう」
「そんな感謝されるようなことなんてしてないよ!」
みうはあっけらかんと笑った。けれど、その優しさが私にはとても眩しく感じた。
土曜日に遊んでから、みうをはじめクラスのみんなと急激に距離が縮まった。でも――本当にただの偶然?
そんなふうに疑問を抱いてしまう自分が、少しだけ嫌だった。
「どうしたの? 叶」
「なんでもないわ」
ごまかしたけれど、心のもやもやは晴れなかった。
* * *
数学、社会、音楽と、午前の授業が過ぎていき、昼休み。
「一緒に弁当食べよー!」
みうと、もうひとりの女の子が私を誘ってくれた。彼女はどこか柔らかい雰囲気をまとっている。
「叶は歌、うまかったね!」
「そんなことないわよ」
「謙遜しちゃって! 褒められたら素直に受け取りなさいよ」
「ありがとう、悪かったわね」
「でも私は、みうのほうが上手だったと思う」
「えぇ、みうの歌、素敵だった」
「歌に上手いも下手もないわ。楽しければそれでいいのよ、何事もね」
その言葉に、私の胸の奥がすっと軽くなった。こんなふうに言える彼女は、きっと芯が強い。
「それで、みう。そちらの方は?」
「この子は私の隣の席の、光井朱里ちゃん!」
「あかり……ね?」
「あかりだよ! かな、だよね?」
「えぇ。星宮叶よ。よろしくね」
「こちらこそ! ところでさ……」
あかりが少し声を落とした。
「このクラスにも、星宮さんって前にいたんだけど……知らない?」
「私が知るはずないじゃない」
「……そっか。ううん、気にしないで。なんでもないの」
あかりの笑顔の奥に、どこか寂しさが見えた気がした。私は、問い返すことをあえてやめた。
* * *
昼食を終え、帰りの時間。
「叶は迎え来るの?」
「えぇ、もう少しで来ると思うわ」
「じゃあ、私たち自転車だから先に帰ってるね」
「おつかれさま。またね!」
「またね~!」
2人が手を振って去っていった数分後、姉が車でやって来た。
「お待たせ!」
「もうちょっと早く来てよ!」
「悪かったわね。……で、友達と弁当食べられて楽しかった?」
「えぇ。それに、弁当、美味しかった。ありがとう」
「口に合ったならよかったわ」
「……早く帰ろ」
* * *
そして1ヶ月後。プールの授業が始まった。
みんなが楽しそうに泳ぐ中、一人だけ、プールサイドから水に入れずにいる子がいた。
誰も彼女を責めなかった。
「放課後、水泳教室しよう!」
提案したのは、クラスでも泳ぎの得意な男子だった。
「この前はありがとう」
――また、誰かがそう言った。
ありがとうの連鎖は、きっとどこまでも続いていく。
名前を呼び合って、声をかけ合って、気持ちを重ねながら。
私はようやく、あの日の「ありがとう」の重みが、本物だったことに気づいた。