姉の影
入学式が終わり、新しい制服にまだ慣れないまま私は家に帰ってきた。
春の陽射しが窓を照らしているけれど、心はどこか落ち着かない。
「姉さん、まだ帰ってないんだ……」
いつもなら先に帰ってきて、ソファでうたた寝しているはずの姉がいない。
気にしすぎかもしれないと思いつつも、どこか胸の奥がざわついていた。
そんな時、玄関のチャイムが鳴った。
時計を見ると午後七時を過ぎていた。こんな時間に誰だろう?
私は少し緊張しながらインターホンを取る。
「はい……どちら様ですか?」
「こんばんは。会津道明と申します。少しお話をしたくて……」
ドアを開けると、30代くらいのスーツ姿の男性が立っていた。
穏やかな声のトーンとは裏腹に、どこか張り詰めた空気をまとっている。
「姉のことで……何か?」
「えぇ。お姉さん、かなこさんに関することです」
「……その前に、会津さんがどういう方なのか教えてもらえますか?」
彼は軽く頷いた。
「私は、ある研究ラボに出資している者です。かなこさんが所属しているラボですね」
「ラボ……そうだったんですか。私、あまり詳しく聞いていなかったので……」
彼はうなずきながら、重い口を開いた。
「実は、そのラボでとても重要な薬の被験者リストが紛失しまして……それに、お姉さんが関与している可能性があるのです」
「えっ……姉が?」
「疑っているというよりは、何か事情を知っているのではないかと。連絡も取れない状況が続いているため、家に戻っていないかと思いまして」
「……私も、さっき帰宅したばかりなので……」
私は答えながらも、脳裏に浮かぶ姉の最近の様子が胸を締めつけた。
――ここ最近、明らかに姉の表情は曇っていた。
夜遅くまで帰ってこない日が増えたし、何か言いかけてやめるようなことも多かった。
「やっぱり……何か悩んでいたのかもしれません」
そう呟いたとき、私のスマートフォンが震えた。
「……姉さん?」
表示された名前に、私は思わず息を呑んだ。
「もしもし!? 姉さん、どこにいるの!?」
『叶ちゃん……ごめんね』
電話越しに聞こえる姉の声は、どこか遠く、そして震えていた。
「謝らないで、何があったの!? 今どこにいるの?!」
『それは言えないの。本当に、ごめんなさい』
「どうして……説明してよ!」
『叶とは、もう……一緒にはいられないの。さよなら、叶。バイバイ』
――ツー、ツー、ツー。
「……切れた……」
私の手の中でスマホの画面が消えた。
「……すみません、会津さん……」
「いいえ。……それでも、生きていれば、きっとまた会えますよ」
「……はい。信じます。姉が生きてくれていること。きっと、会えるって」
私は拳を握った。まだ何もわからないけど、あの声は確かに生きていた。
「それでは、私はこれで失礼します。カナさん」
「遅くまですみませんでした……被験者リスト、見つかるといいですね」
「きっと、大丈夫です」
彼が去ったあと、家の中に再び静寂が戻った。
そして私は……その静寂の中で崩れ落ちた。
「姉さん……いないと、やっぱり寂しいよ……」
涙が止まらなかった。玄関の冷たい床に座り込んで、ひとしきり泣いた。
――ひとりは、やっぱり辛い。
その夜、私は思った。
「弦水さんに頼んで、四条家で暮らせないか聞いてみよう」
気持ちが少し落ち着いたあと、明日の予定を考えながら布団に潜った。
「……そういえば、宿題してなかった。明日、みうに見せてもらお……」
そう呟いたあと、私はようやく眠りについた。
次の日も、きっと慌ただしく始まる。でも、姉を信じて、私は歩き続ける。




