秘密の扉と、大富豪の邸宅
春休みのある午後。
みうと遊んでから、少し時間が経った頃だった。心の中で、ずっと引っかかっていた小さな棘に、私はついに触れてしまった。
「姉さん……」
「どうしたの?」
食器を片付けていた姉が、手を止めてこちらを見る。
「私が……男だってこと。やっぱり、周りには話さない方がいいんだよね?」
姉はしばらく黙っていたが、やがて、静かにうなずいた。
「そうだね。だけど……もし叶が、心から信じられる友達ができたのなら、その時は、自分の判断で話してもいいと思うよ」
「本当……?」
「本当。嘘をついたまま関係を続けるほうが、きっと苦しいでしょ?」
「……うん」
その言葉に、胸の奥に溜まっていたモヤモヤが少しだけ晴れた気がした。
――私は、みうに何も話していない。それがずっと、心に引っかかっていた。
「そういえばさ、みうの母親がこの前、私のこと『お婿さんにしたい』って言ってたんだよ?」
その瞬間、姉の表情が一瞬だけピクリと動いた。私は見逃さなかった。
「え? 何か気になる?」
姉は口元を少し引き結び、目を細めた。
「……ちょっと気になるね」
「どうして?」
「薬の被験者の情報は、ラボの研究チームと、関係する出資者のごく一部しか知らないはずなの。みうの家の背景、調べた方がいいかもしれない」
「……え?」
姉の声が、どこか張りつめたものになっていた。私は戸惑いながらも頷いた。
「……とりあえず、今日みうの家に行ってみて」
「うん、分かった」
姉は静かにうなずき、そのまま自室へと戻っていった。私はスマホを手に取り、みうにメッセージを送る。
『今日、そっちの家に行ってもいい?』
すぐに返信が届いた。
『OK! いつでも来て!』
「よし……」
「姉さん、行ってくるね!」
一言声をかけて、私は玄関を出た。
──だが、歩きながら、あることに気づく。
「……そういえば、みうの家の場所、ちゃんと聞いてなかった」
慌てて電話をかけるが、なかなか出ない。諦めかけたその時――
「失礼。星宮叶様でいらっしゃいますか?」
見知らぬ声が背後から聞こえた。振り返ると、30代くらいのスーツ姿の男性が立っていた。
「そうですが……あなたは?」
「私は四条家の者です。ある方の依頼で、あなたをお迎えに参りました」
「四条家……って、あの大富豪の?」
「はい。ご隠居様が、星宮様に会いたいと申しておりまして」
「え? 私に……?」
戸惑いを隠せずにいる私に、男はさらに続ける。
「なんでも、『恩がある』と……」
「恩……?」
記憶にそんな人物はいない。だが、姉の言葉がよぎる。
(投資家……出資者……まさか、関係者?)
「……案内、お願いできますか?」
「ありがとうございます。では、お車へ」
黒塗りの高級車に乗り込み、しばらく街中を走ると、やがて広大な敷地に囲まれた大邸宅が現れた。私の想像をはるかに超える規模だった。
「こちらです。どうぞ」
車を降り、玄関の扉が重々しく開く。中にいた執事のような男性が、すぐに私を出迎えた。
「お待ちしておりました。ご隠居様が寝室でお待ちです。ご案内いたします」
館内は、まるで美術館のように静かで荘厳だった。絵画、彫刻、調度品――そのどれもが桁違いの価値を感じさせた。
そして、一室の扉の前で足を止めた執事が、ノックをする。
「失礼します。お客様をお連れしました」
「……入りなさい」
かすれた、しかし威厳ある声が返ってくる。
扉が開き、私はゆっくりと中へ足を踏み入れた。
そこには、杖を片手に椅子に腰かけた老人がひとり――。
年の頃は八十を超えているだろうか。背は丸く、顔には深い皺が刻まれているが、その目は鋭く、ただ者ではない風格があった。
「星宮叶くん……よく来てくれたね」
「は、はい……」
私の鼓動が、高鳴る。
この人は誰?
私に、恩があると言ったこの老人は――何を知っているの?
そしてこの出会いが、私の運命を大きく動かすきっかけになることを、このときの私はまだ知らなかった。
──つづく。




