ただいまの裏側
「姉さん、ただいま」
玄関を開けると、懐かしい匂いがふわりと鼻をくすぐった。夕飯の匂いと、どこかほっとする家の空気。それは、帰ってきたことを実感させてくれる。
「おかえり、叶」
リビングから聞こえる姉さんの声は、いつもと変わらない優しいトーンだった。けれど、私はその“変わらなさ”に逆に違和感を覚えていた。
「姉さん、聞きたいことがあるんだけど」
学校のカバンを床に置いて、私は姉さんの方へ向き直る。テレビの音が静かに流れる中、姉さんは湯気の立つスープをテーブルに置いた。
「なに?」
「今朝、私がリビング出た時、何か言ってたよね?」
その問いに、姉さんの手がわずかに止まった。
一瞬、私は聞くのをためらいそうになった。けれど――あとから誰かに聞かされるのは、もっと嫌だった。だから、勇気を出して真正面から問いかけたのだ。
「やだなぁ叶ったら! 姉さん、何も言ってないわよ?」
姉さんはいつもどおりの笑顔を浮かべてごまかそうとする。でも私は見逃さない。今朝、確かに姉さんは何か言った。私の名前でも、誰かの名前でもない、けれど明らかに意味のある言葉だった。
「いいや、言ってたね。聞こえたもん」
私の声は、思った以上に強く響いた。姉さんの表情がふっと曇り、しばらく黙り込む。そして、覚悟を決めたように深く息を吐いた。
「分かったわ。ちゃんと話すから……落ち着いて」
「私は落ち着いてるわよ。それで、何言ってたの?」
自分でもわかっていた。声が少し震えていることに。でも、それでも知りたかった。
「父さんと母さんのことよ」
「……パパとママのこと?」
その名前を聞いたのは、久しぶりだった。言われてみれば、ここ最近、姿を見ていない。以前は数日に一度、連絡があったのに――
「その父さんと母さんがね、来週帰ってくるの」
「それ、本当?」
「ホントのことよ」
私は、思わず両手を握りしめて立ち上がる。
「やった……!」
抑えきれない嬉しさが言葉になり、口からこぼれる。ずっと会いたかった。家族みんなでご飯を食べたり、他愛もない話をしたり、そんな当たり前のことがまた戻ってくる。
けれど――
姉さんはその笑顔を黙って見つめていた。
何も言わず、ただ微笑むだけ。だが、その目の奥に、言葉にできない“何か”が宿っていた。
(ごめんね、叶……)
姉さんは心の中で、私に謝っていた。
本当のことを言えなくて、ごめん。
でも今はまだ、伝えるわけにはいかない。
叶が“真実”を知るのは――きっと、もっと先のことになるだろう。




