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なんで人は生きているのだろう。このところ毎日そんなことばかり考えていた。
人は目が覚めると、顔を洗い、トイレに行き、朝ご飯を食べ、身支度を整えて家を出るだろう。平日は会社や学校に行き、休日は思い思いの行動をとる。
それは、多くの人がいわば当たり前にこなしていることで、それが生きているここと言い換えてしまってもいい。
その中で、楽しいことがあったり、悲しいことがあったり、感情が揺れ動くこともある。そういうことが、生きているという人もいる。
人笑顔をうかべることができたり涙を流すことができたりする。私も例に漏れず、笑顔を浮かべたり、涙を流したりすることもある。
ただ、それが全部偽りの自分なんだとしたら。それが全部自分で作った本当の自分でないとしたら。それにはいったい何の意味があるというのだろう。それすらも、生きているという理由になるのだろうか。そんなことをしていて、果たして楽しいといえるのだろうか。
私は本当の意味で――心の中からの本当の意味で――笑顔を浮かべたり、涙を流したりすることをいつの間にか忘れてしまっていた。
表情はどうやって浮かべるのだろう。どういう風に笑えばいいのだろう。いつしかしかそんなことばかりが頭の中を支配していた。
私はどこにでもいる普通の女子高生だ。普通に生きていて、普通に学校にも行っている。遠野知佳という名前もある。
でも、私はいじめられていた。
いじめがいつから始まったのか、私はあまり覚えていない。別に大した理由ではなかったはずだ。学校という大きな組織があるとすれば、そこにはクラスという小さな組織がある。そのもっと小さな組織にグループというものがある。
人がたくさん集まっている中で、たくさんのグループが存在しているとすれば、当然意見が食い違うこともあるだろう。
ほんの小さな意見の食い違いだけで、いじめが発生するのは、自然なことかもしれなかった。
人は、どうしても相手の悪い部分が見えてしまう。そんな理由だけで、人は人を傷つけることができる。
みんな、本当は大抵のことはどうでもよかったりするのだ。私だってどうでもいい。どうでもいいけれど、いじめは存在する。
どうでもよくて、別にやることもないけれど、いじめは存在する。
まるで、息をしているみたいに。
自分の存在を確かめているのかもな。
「何か言えよ! 生きてるんでしょ? 口にチャックでもついてるの?」
私に向かって放たれる汚い言葉を耳にしながら、そんなことを思った。
口にチャックなどついてはいないし、生きているので今叩かれているのもわかっている。
わかってはいるけれど、別にどうでもよかった。
いじめは、いじめられる方にも問題があると言われたこともあるが、私にはそれもよくわからなかった。
人の言うことにあまり関心が無くなったのもいつからだろうと、何となく思ったりもした。汚い言葉を言われたり、睨まれたりしても感情が動かない。
表情の浮かべ方もよくわからないため、どうしていいのかわからない。いじめられても、何となく涙を流してみても、やっぱりよくわからない。
わからないということもわからないのかもしれなかった。
学生の女の子は難しいなと思うことはたくさんある。多感な時期とでもいうのだろうか。私を今叩いている女の子と、その横にいる女の子は本当は仲が良くない。
私が自分の席でぼーっとしているときに、いない相手の陰口をよく言っている。それもお互いにだ。
私をいじめるときはお互い結託しているようでしていないのも、中が良くないなと思う原因であった。私を叩くときに、叩いていない女の子の目は私に向いているようで、実は向いていなかったりする。どこをむいているのだろうか。
どこを見ているのかわからない目と偽物の笑顔と声で、「もっとやっちゃえ」とあおるような言葉を放つ。
そういう意味では、この子たちも偽物なのかもしれなかった。けれど、それが偽物だと気付くことは、おそらく今ではないだろう。もっと後になって、そういえば学生の頃と思い出すとき。その頃にはいじめていた記憶も残ってはいないのかもしれない。
そういった偽物ばかりがこの世の中には存在していて、そういう物をたくさん見て体で感じていたら、なんで人は生きているのだろうと思うようになった。
偽物しかないのだったら、そこに意味はないのではないか。
私がいなくても、世界は成り立つだろう。
いじめが無くなることもおそらくない。
そういう視点で物事を考えるようになったら、こういう風になってしまった。
無いものは使うことができない。
使わないものは、使うことができなくなる。
私にとって、感情はそういうものなのだ。
床にぺたんと座った私は、なぜだか今日も生きている。