夢と現
私はとことん深く染まっていく。
沼地の底に沈みながら、衣服を圧迫する泥に包まれ、もがくこともなく、ただそれに飲み込まれていく。ひんやりと覆われていく表面が、生きる事への望みを消失させていく。蝋燭の火をフッとかき消すように、脆くしなびた命が散りゆくように、足元から飲まれていく。
「明るい話をしましょうか」
もう一人の、表向きな私は気分転換にそう呟いた。暗い陰湿な話なんて誰も聞かない。「聞く耳なんて持っていないのさ」と、道化師染みた口調で言葉を紡いでいく私に、私は無視を決め込んだ。
「今朝、朝食のパンを焼いていたんだ。その時、玄関のチャイムが鳴って私は誰も居ないリビングで「はい」と声を出した。玄関に行くと、そこに居たのは顔馴染みの友人だった。ついうっかり、話が長引いてしまって気が付けばパンは真黒の炭になっていたんだ。それで、その後、私はどうしたと思う?」
沼に沈む私を、岸辺に置いた椅子に座り、頬杖をついて楽しそうに見つめる私は首を傾げて問いかけてきた。どういう状況なのか、理解するにも把握するにも無駄な時間だという事を、瞬時に悟った私の脳は、私に返事をする事をしなかった。同時に、私は今朝の朝食を何も食べていなかった事を思い出していた。
「つれないね。そういう態度ばかりとるから誰も君に近寄らないんだ。暗いイメージが与える影響を君自身は知っているだろうから。その性格は表面に出さない方がいい。絶対嫌われるからさ。まぁでも、だからこそ、こういうおちゃらけた性格の自分を生み出したんだろうけど――――違うかい?」
身体の体温が下がっていく。朝食を食べずに昼寝をしていたら、夢の中でこの状況に遭遇した。沈みきれば夢から解放されるのだろうか。それとも、沈みきった場合、今の私は深層の中に閉じ込められてしまうのだろうか。夢幻の世界で夢の私と現の私は入れ替えられてしまうのだろうか。答えは目の前に居る私が知っているのだろう。だが、ニヤニヤと口角を三日月のようにして、それと向かい合うようにして二つの目も三日月を描いて笑う私に質問をする気にはなれない。話し掛けるくらいならば、このままもう一度眠りに落ちた方がマシだと言える。
「現実の君はパンをゴミ箱に、手で砕きながら消し炭にしていった。それに対して私は限りなくリサイクルを好む質でね。粉々にして、水を垂らして墨にしたんだ。それから紙を用意して筆も準備した。机の上に黒いフェルトの生地を置いて、汚れていない白いコピー用紙を上に置いて、文鎮で固定したんだ。動かないようにね。そして筆を持って一筆、こうやって書いてみたんだ」
私は何を聞かされているのだろう。いや、私は何を想像しているのだろうかと考える方が正しい。聞かされているようで、これは私が考えた物語の一つなのだろうから。それにしても、目の前でへらへらと動きを交えながら説明する私と目が合う度に、ひどく気分が沈んでいく。実際に沼に沈みながらとなると二重苦でだいぶ厄介な事象だ。もがく気もないが、これを後どれほどの時間聞かされるのだろうか。泥も胸よりも少し高い位置まで達している。まだまだ底の知れない沼に全身が飲み込まれていく。
「さて、ここでクイズです。私は何を書いたでしょうか?」
目の前の私は姿勢を変えないで笑いかけてきた。答える義理はない。何故なら、私はその答えを嫌でも知っているのだから。沈みゆく私と、頬を歪めて悦に笑うもう一人の私。先程から私が答えないのにも関わらず、向こうが一方的に話しかけてくるのは、お互いに理解してしまっているからだろう。
私らしくない私の姿は妙に腹立たしい。嫌悪感さえ抱いてしまうほどに、目の前で不敵に笑う私は気味が悪い。
「では、答え合わせといきましょう」
ニヤリと笑う私を見ながら、私は既に口元から鼻の辺りまで沈んでいた。息が出来なくなった。多少、多めに吸った空気を大切に吐き出していく。「ぼごっ」「ぶぐっ」と、やけに生泥い音が目先で聞こえる。だが、それもすぐに聞こえなくなった。耳も泥に浸かり、目線だけを目の前の私に向ける。
目の前の私は頬杖をやめて両手を前に、向い合せるようにして空に投げ出した。
「お手を拝借」
笑ったままの私が言う。少しの好奇心で手を動かしたが、泥の中では動かしにくいので諦めた。
私は両手を勢いよくぶつけ合い――――――――――パンッ。
「……」
手を叩いた衝撃にハッと目が見開く。目が覚めた時、それは明朝、太陽が形を八割ほど剥き出しで天に顔を覗かせていた時だった。私はいつも通り、朝食の準備の為にパンをオーブントースターの中に入れる。ジリリと、チャイムが鳴る。私は「はい」と、誰も居ないリビングで返事をして、そのまま玄関へと歩きだした。