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皐月花  作者: 涼暮月
5/5

喫茶

「児玉礼司、あるいはレイモンド・D・ハワードという人物は50万人程度の死に直接関与し、間接的には何百万もの人々を殺しているだろう。その上で本人はなんの呵責も恥もなくのうのうと生きている科学者である。日本の華族であり子爵という栄誉を賜りながら、日本を裏切った卑劣な大罪人である。天地神明にかけて、私は決して彼を許しはしない。その思いは読者諸賢もお持ちであると固く信じている」

 ーーある日本の保守系の雑誌に寄稿された記事。


 喫茶店というと、大きく2つに分けられる。女給を置き、酒を提供している「カフェー」と純粋に珈琲や紅茶を楽しむことを目的とする「純喫茶」である。仏蘭西、それも巴里で本場のカフェーを楽しんだことのある礼司からすれば、日本の「カフェー」はどこがカフェーなのか不可解極まりないのだが、どうにも日本では人気を博しているらしい。

「暑いしカフェーに行かないか?」

 8月も下旬になり、相変わらず日射が厳しい中、児玉礼司の友人、和田哲治は礼司に言った。

 彼が言うカフェーはもちろん文字通り「カフェー」であろう。相変わらず遊び人であるようだった。

「純喫茶なら涼みに行ってもいいけど、カフェーは行かん」

 礼司はジャケットのポケットからハンカチを取り出し、額を拭いながら言った。

 如何に暑かろうと紳士たるものきっちりとした服装に身を包むべきであった。少なくとも外出する以上、洋装であればいわゆる「三つ揃え」であるべきだし、和装であればせめて紬に羽織を着るべきだ。

 隣りで歩く哲治なんぞは洋装を着崩しているが、これは頂けない。

「……やっぱりお前、カフェー嫌いだよな」

「好きこのんで見ず知らずの人と話したいと思う奴の気の方が知れん」

 哲治があまりにも残念そうな顔をしていて、礼司はため息をついた。昔から、彼は女性と遊ぶことに関しては目がない。そのあたりが自分とは真逆で、なぜ今でも仲良くできているのか、礼司にはいまいちよく分からなかったが。

「……どうしても女性に給仕して欲しければ僕の家に来て芽衣にさせるが」

「……お前、カフェー行ったことないだろ」

 礼司は何を当たり前のことを、と思いながら頷いた。日本のカフェーは邪道だ。

「俺だからいいけどな、他の奴にはそんなこと言うなよ?最近のカフェーは過激なサービスを売りにしてるところが多いんだぞ?」

「過激なサービス……」

 一体どんなものだろうと3秒ほど考えて、礼司は赤面した。単純に綺麗な娘に給仕されて嬉しいだとか、そういった次元を超えているようだ。

「特に大阪式は……って違う、そういう話がしたいんじゃない。というか、児玉、相変わらずお前は初心だなぁ」

 にししと哲治が笑う。

「想像だけで赤面するとか、どこまで想像したかは知らんが女性経験無さすぎだろう、ん?」

 意地悪そうな笑みを浮かべて、哲治は礼司の顔を覗き込んだ。

「別になくても困らないだろう」

「いいや、困るね。人類の半分は女なんだ。それを知らないというのは、社会の半分を知らないということだ」

 哲治の言い草に、礼司は憮然とした。彼の言っていることは理解できるのだが、どうにも詭弁でしかないような気がする。

「別に僕だって女性と社交ができないわけではないぞ。ダンスだって一応英国で仕込まれた」

「でもそういうの、嫌いだろ?」

「……それは否定しない」

 欧州の上流階級は社交の一環として行われるダンスで結婚相手を探すようだが、そもそも結婚などしなくても良いと思っている礼司には関係のない話だ。

「それに芽衣だって……」

「女性だとか世迷言はそこまでにしとけよ?お前、芽衣ちゃんのことを雇い人か、せいぜいで妹くらいにしか思ってないだろ。それは女を知ってるには入らん入らん」

 哲治は小馬鹿にするように右手をひらひらさせて否定した。そして、哲治の言い分を礼司は否定できなかった。

「というわけで、児玉が女に慣れるためにもカフェーに行くぞ。なに、最初はそう過激でないところから……」

「そう言ってお前が行きたいだけだろう。僕は行かないぞ」

 礼司は努めて冷たく聞こえるように言った。

「なんでそうも頑ななんだよ。人間何事も挑戦だぞ」

「もし何かの拍子にそんなところ行ったことが芽衣に知られてみろ、家に帰れなくなる」

 哲治はきょとんと何度か目を瞬かせた後、不意に笑いだした。

「恐妻家みたいだ。そんなに芽衣ちゃんおっかないのか?」

「別に芽衣は怖くはないけど……」

 自分の思っていることを言葉にするためにら礼司は少し間を置いた。

「芽衣は幼い、多感な時期の少女だ。にも関わらず、親を亡くし僕なんぞの使用人をしている。だから、なんと言うかな、あまり彼女が嫌がりそうなことはしたくない」

「……過保護すぎやしないか」

 哲治はむしろ呆れたようだった。

 華族の使用人に対する態度としては哲治の言が正しいのだろう。しかし、礼司は芽衣を家族のように思っているのだ。むしろ、そうでなければとっくに別の奉公先を都合してやっている。

 年の離れた妹に対する兄の感覚だとすれば、むしろ普通だろう。

「まぁいいんだけどな、俺はな、何もお前を困らせようとカフェーに誘っていた訳じゃあないんだぞ。多少は女性慣れしておかんと児玉子爵家の跡継ぎが生まれんだろう」

「跡継ぎなんかなくていい。児玉子爵家は僕でおしまいで誰が困るんだ?」

「確かに誰も困らんが……」

 哲治は苦笑いを浮かべていた。

「そうだ、芽衣ちゃんはどうなんだ?」

 哲治はさも名案が思いついたかのように何度か頷いていた。

「どう、とは?」

「児玉子爵夫人として。まぁ身分違いではあるが法的には問題ないだろう?」

 芽衣の名前を出されることは心外だったが、逆に言えばそれくらいしか礼司と親交のある年頃の女性がいないということであろう。年頃というには、芽衣は少々幼いが。

「……叔父上にも同じことを言われたよ。しかも、いざとなれば芽衣を養子にしてくれるらしい」

「はー、お前の叔父殿は商工省だっけか?まぁそれなら問題ないな……」

 華族の結婚には宮内大臣の許可が必要であるし、何より体面というものを重視する世界である。ある程度地位を確立した後に、後添えとして芸者を貰うという話であればともかく、若い頃の初婚ともなれば使用人と結婚したというとなかなか華族の世界でも、あるいは日本のゴシップ界でも話題となるだろう。それが、叔父の養子となれば、建付けとしては官界の実力者の娘と結婚、しかも従妹となり、面白みのない話となる。

 尤も、礼司自身はそのようなことは気にしないが。

「僕の妻なんぞになったら芽衣が可哀想だよ。それは君も分かっているだろう」

 哲治は礼司の為すべき目的を知っている。そうであれば、礼司の妻となることがどれだけ大変なことか、きっと分かるだろう。

「いや、知らん」

 しかし、礼司の予想に反して哲治の答えは素っ気なく、そして呆気なかった。

「蓼食う虫も好き好きと言うしな。児玉みたいな奴が好きな酔狂人かも知れん」

「そこまで言われると腹が立ってくるんだが」

「俺が言いたいのはな、それを決めるのはお前じゃない、芽衣ちゃんだろう。芽衣ちゃんじゃなくても、お前の妻となる女性が決めることだ。お前じゃあない」

 いつになく哲治は目付きが厳しい。彼が本気で腹を立てている時はこういった表情をすることが多いのだ。

「お前が自分のことを卑下することは、まぁ今に始まったことじゃあない。だが、それでお前やお前の周りの人の幸福を潰してしまうような真似はやめるべきだ」

 目の前の友人に一体何がわかるというのだろう。きっと何も分かりはしないのだ。けれど、礼司は哲治の言葉を否定できなかった。

「……僕は、芽衣には平凡で幸せな人生を送って欲しいんだ。平凡な恋をして、平凡で善良な男性と結婚して、子供を産んで、老いていく。そういった、平凡で幸せな人生をね」

 礼司はしみじみと、一言ひとこと噛み締めるように言ったがらそれに対して哲治は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「はん、まるで自分が平凡ではないかのような言い草だな」

「客観的に見て子爵で博士は平凡ではなかろう」

「そのあたりは非凡だろうが、男女の問題ではお前は充分平凡だろう。むしろ奥手だ。遊ぶにはつまらんが夫にするには結構いいだろう」

「だが僕は善良ではない」

 礼司の断言に、哲治は口を噤んだ。

 何かを言おうとして、口を閉じる。哲治はそれを3度ほど繰り返した。

「分かるだろ、僕は善良ではないんだ」

 念を押すかのような礼司の言にようやく哲治は口を開いた。

「はん、それがどうした」

 小馬鹿にするような哲治の口調に、今度は礼司が言葉を継げない番だった。

 小市民的な善良さというものは、人付き合いをする相手を選ぶ際には重要だろう。邪悪な人間よりは善良な人間の方が良い。当たり前のことである。

 それを哲治は鼻で笑い否定した。その真意が奈辺にあるか、礼司には分からない。

「今までのお前なら、結婚の話が出た時点で当たり障りのない回答でのらりくらりとしていたはずだ。本当に興味がなかったろうからな。どうでもいいことには、お前は穏やかで、毒にも薬にもならないような返事をするはずだ」

 つまらないことや興味のないこともさも大切なことのように振舞ってみせることは礼司にはできない。そこまで器用な人間ではないのだ。むしろ、世間の人々がなぜつまらないことをあたかも大切なもののように扱っているのか、彼には理解しがたかった。

 ーーつまるところ、芽衣は自分にとって大切な存在なのだ。

 使用人といえど、芽衣は礼司に残されたたった1人の家族なのだ。

 芽衣は礼司には勿体ないくらいよくできた娘だ。家事はひととおりこなせる上、紅茶を淹れる技術ときたら、英国においても一目置かれるだろう。そんな少女が自分と一緒にいても良いのか、最近とみに疑問に思う。

 礼司には芽衣を幸せにする自信がなかったから。芽衣を大切に思うことは、自分の10年来の本願への裏切りでしかないような気がするから。

「和田」

「ん?なんだ?」

 自分から呼んだというのに、礼司はしばらく迷ってから口を開いた。

「……喫茶はやめだ。僕の家に来てくれないか」

「いいけど、急だな。どうした」

「いやなに、研究を続けよう」

 これで良いのかという迷いを胸に秘めて、礼司は言った。


 大陸の戦火はついに上海にまで広がった。中国政府も徹底抗戦の意志を固めつつある。おそらく、両国の外交筋や政府上層では和平への工作が続けられているのだろうが、一般市民にそのような話が聞こえてくるわけがない。高まる世論を背景に、両国政府とも引くに引けなくなっている可能性は大いにあるだろう。

 礼司が思うに、東亜は小康状態にあった。日本を始めとする列強の中国大陸の利権は充分火種であるのだが、どこかの国が戦争を決意するまでとはいえないと考えていた。日本の勢力圏拡大の動きは気になっていたが、短急に武力行使で解決を図るとは思えず、そうであれば、国内に不和を抱える中国が積極的に戦争を仕掛けるとも思えぬ。むしろ、火種を抱えているとすれば、戦後秩序に挑戦を始めた独逸のある欧州であると思っていたのだが、読みが外れていたことを自覚せねばなるまい。

 彼の計画も修正を余儀なくされるだろう。列強各国の利権が入り乱れる魔都上海に飛び火した以上、日英関係もいつ悪化するか分からない。

 考え込んでいる礼司の鼻腔を心地よい香りがくすぐった。

「お考え込んでいらっしゃるようでしたので。たまにはお砂糖を入れた紅茶はどうですか?」

 芽衣はふわりと微笑みながら、彼の目の前にティーセットを用意していく。

「ああ、ありがとう」

 芽衣が淹れてくれた紅茶に、礼司は砂糖を一匙だけ加えた。

「……砂糖を入れた紅茶はね、英国労働者の活力なんだ」

 紅茶を口に含み、甘みを感じながら礼司は言った。

「活力ですか?」

 芽衣は小首を傾げて目を瞬かせていた。きっとなぜ活力になるか、想像できていないのだろう。

「ああ。砂糖は甘いだろう?疲れにもいいし脳にも良い。酒のように酔うわけでもない。だから、英国の労働者たちは紅茶に砂糖を入れて、そして工場に行くんだ」

「すごいんですねぇ、紅茶と砂糖」

 ほうほうと頷きながら、芽衣はしみじみと自分の入れた紅茶を見つめていた。

「英吉利という国の血液は紅茶だね。なんなら英吉利人の血管の中には紅茶が流れているかもしれない」

「そこまで……」

 芽衣は若干引き気味であった。

「……それじゃあ旦那様の血液も紅茶なのですか?」

「僕は日本人と英国人の血が半分半分だからね……紅茶と緑茶?」

「あんまり緑茶を飲んでらっしゃる印象はありません」

「じゃあ味噌汁と紅茶かな?」

「……まずそう」

 芽衣は味噌汁と紅茶を混ぜた味を想像したのか、辟易とした表情を浮かべていた。確かに、自分の身体の中に紅茶入りの味噌汁が流れていたらと考えると……。

「……結構嫌だな」

 芽衣はこくこくと頷いた。

「でも芽衣は露西亜系亜米利加人と日本の血が混ざってるんだろ?」

「……はい」

 芽衣は顔をしかめながら頷いた。きっと、自分の血が何味で称されるか、考えたくもないのだろう。

 礼司は米露で代表される飲み物は何だろうと思った。そして、すぐに思いついた。

「ウォッカにコークに味噌汁……」

 なんと酒入りである。

「お味噌汁以外飲んだことないです……」

 芽衣は少ししょげていた。味噌汁が入る時点で、どんな組み合わせになろうと美味しいものにはならないが、知らないというのもそれはそれで嫌らしい。

「ウォッカは酒だから飲んだことあったら驚くが……」

 コークは確か日本にも輸入されていたはずだ。今度土産にでも買ってこよう。

「そういえば、旦那様はお酒をお召しにならないですね?お屋敷にも置いていないですし」

「嫌いな訳じゃあないんだけどね」

 芽衣の淹れる紅茶が美味しいから、あまり他に飲む気になれないということもあるが。

「酒はひとりで飲んでもあまり楽しくないし」

「芽衣がお酌しますよ?」

 日本酒の徳利を持つ仕草をした芽衣の頭に、礼司はぽんと手を乗せた。

「芽衣が飲むような年齢になったら2人で飲もうかね」

 その時は日本酒ではなく葡萄酒の方が礼司の好みとしては良いのだが。

「約束ですっ!」

 芽衣は華やぐような笑みを浮かべた。

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