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皐月花  作者: 涼暮月
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盧溝橋

「地獄への道は善意で舗装されている、と言います。現に、我が国は民族存亡の岐路において、場当たり式に、しかし光明だと思った方向へと進んでいったように思います。私を含め、多くの人々は、1930年代において、日本は正しい道を進んでいっていると思っていました。それは大戦禍の直接的引き金となった盧溝橋の時もそうであります。けれど、あまりにも悪名が高い、それ故に名前は伏せさせて頂きますけど、私の義理の甥は、きっと、既にその時には、私たちの行き先は地獄だとわかっていたのだろうと、今になって思います」

 ーー日本鉄鋼連盟会長、椎名三郎氏の戦前・戦中を振り返ったインタビューより。


「旦那様、問題です!今日は何の日でしょうかっ」

 朝の紅茶を楽しんでいる時から、芽衣は元気に溢れているようだった。

 紅茶から立ち上る芳香を楽しみながら、礼司は考えた。祝日でもなければ何かの記念日でもない。はて、と礼司は顎に手をやった。

 さらに10秒ほど考えてから、下手の考え休むに似たりという言葉を思い出し、肩をすくめた。

「分からん」

「今日は星祭りの日、七夕です!」

 芽衣に言われて、さらに5秒ほど考えてから、礼司はぽんと手を打った。今日は新暦7月7日、確かに七夕であった。長らく日本を離れていたから、そういった日本の風習を忘れているようだった。

「そうか、最近は新暦で祝うのか」

 負け惜しみに、七夕自体はさも覚えていたかのように礼司は嘯いた。

 明治のご維新の際に太陰暦から太陽暦へと改暦があった。それに伴い、日本の伝統行事は新暦で行われることと旧暦で行われることの両方が見られるようになった。

「旦那様、最近、商店街も笹を飾り短冊をかけているのですよ。気づかなかったのですか?」

「……あー、いつも歩く時は考えごとをしていてね」

 礼司は目を逸らしながら答えた。

 屋敷と職場の行き帰り、歩いている際は考えごとに没頭していることは嘘ではない。彼の仕事はとかく頭を使う。だから、歩いている時などにも考えごとをしてしまうことが多い。

「歩く時はきちんと歩かないと危ないですよ」

「あー、芽衣、昔中国に欧陽脩という立派な人がいて、考えごとをするには馬上、枕上、厠上の三上が良いと言っていて、馬上は今でいえば歩いている時とか、乗り物に乗っている時とかにあたるんだ」

「旦那様、それはもう3回は聞きました。あと、欧陽脩というお方は考えごとをする場所ではなくて、文章書く場所としていたのでは?」

「あー、そうだったかな」

 一緒に住むようになってから2ヶ月もしたから、芽衣はすっかり礼司をやり込めるようになってしまった。幼い少女相手に口で負けるというのはなんとも情けない話であるが、かといって口で勝つためにムキになるのはもっと情けない。

「それで、七夕がどうかしたのかい?」

「実は昨日、商店街で笹を貰ってきたのです。願い事を書いて短冊を飾りましょう?」

 ーー願い事、ねぇ。

 七夕で願えるような可愛らしい願い事が思いつかない。と言うよりも、自分の願い事とは何だろうか。あまり考えたことは無かった。

「笹と短冊をこちらに持ってきますっ」

 芽衣は手にしていたティーカップを置くと、ぱたぱたと駆け出していった。

 待っている間に願い事でも考えよう。自分の願い事といえば、10年来の宿願が成就すること。けれど、これは短冊に書けるような生易しいものではない。あるいは、科学者として大成することだろうか。しかし、これは子供の遊びのようなものとはいえ、神仏のようなものに頼るというわけにはいかないだろう。あくまでも人間が独力で達成すべきものだった。

「お待たせしましたっ」

 つらつらと考えているあいまに、芽衣は笹と短冊、それに万年筆とインク壺を持ってきていた。

「芽衣は何を書くか決めたかい?」

「はい。旦那様は?」

「あー、そうだね……」

 深く考えるから良くないのだ。それこそ世界平和でも願っていれば当たり障りないだろう。

「決めたよ」

「それじゃあ書きましょう」

 礼司と芽衣はそれぞれ短冊に願い事を書いていった。礼司は先に決めたとおり世界平和を願う。

 芽衣は短冊を手元で隠すようにして書いていた。あまり見せたくないのかとも思ったが、見せたくないだけなら書かなければ良い。

 書き終えた礼司は芽衣が持ってきた笹に短冊を飾った。芽衣はそれを見てほうほうと頷く。

「世界平和、ですか」

「まぁ平和に越したことはないよ」

「それもそうですね」

 芽衣は頷くと、自分の短冊を笹に吊るした。

 吊るされた短冊には「たくさん本を読めるようになりたい」と書かれていた。

「なんだ、そんなことなら本を買いに行くか?」

「あ、いえ。小説を読みたいとか、そういうことではなくてですね……」

 芽衣は少し頬を赤くした。

「私、旦那様と同じ世界を見てみたいんです。旦那様は学者様です。だから、もし旦那様と同じ世界を見ようと思うと、きっと難しい本をたくさん読まないといけないんだろうなって、そう思うんです」

 芽衣は気恥しそうにほおに両手をあて、身体をくねらせていた。

 礼司は芽衣のふわふわと癖のある白金色の髪を軽く撫でた。

 芽衣は上目遣いに礼司を見上げた。その挙措も小動物のように愛らしい。

「芽衣は尋常小学校まで出たんだっけ?」

「はい」

 芽衣は礼司の右手を頭に載せたままこくんと頷いた。

「じゃあ女学校に入るか?金なら出すぞ?」

 自分でも意地悪な言い方だと礼司は思う。

 案の定、芽衣は慌ててふるふると首を横に降った。

「私は旦那様に雇われている身ですし、私なんぞに勿体なさすぎますっ」

 正直なところ、芽衣が自分と同じ世界を見たいと言ってくれた時、とても嬉しかった。彼女とはきっといつか道が分かたれてしまうだろう。それでも、もしかしたらずっと同じ世界を見続けてくれるかもしれないと思うと、不思議と心が温かく感じた。

 けれど、それは礼司の利己主義でしかないことは彼自身がよくわかっていた。幼くて愛らしい少女にそれを求めるべきではない。

 だから、そうかと言って礼司は自分と芽衣を誤魔化した。芽衣は自分のところに到達すべきではない。

「……芽衣、うちにある本は何でも読んで構わない」

「ありがとうございますっ!」

 芽衣は無邪気に目を輝かせた。

 芽衣の希望を叶えるのであれば、礼司が教師役をすることがいちばん早い。芽衣の頭の良さも考慮すれば、少なくとも10年後には理論物理学の最新の研究を正確に理解できるようになっているだろう。それは礼司と同じ世界を見るということにほかならない。

 ーー科学者が政治とも宗教とも無関係で無邪気に学問をできる時代ならばそれでいいんだけどな。

 政治とは縁遠そうな理論物理学でさえ、最近は政治や軍事と無関係ではいられなくなりつつある。それは、理論物理学者である礼司自身がよく知っていることだった。

 礼司はまだ良い。生まれも特殊であるし、自ら政治を利用してやろうと画策しているほどだ。しかし、芽衣にはそういったことを知らずに純真に育ち、性根の美しい人と結婚し、平凡で幸せな生き方をして欲しい。

「……芽衣」

「はい、なんでしょう?」

 芽衣は屈託のない笑みを浮かべる。自分のような人間に向けられるには勿体なさすぎる笑顔だった。

「今日僕が帰ったら外を散歩しよう。折角の七夕、星祭りだ。商店街で笹を見て、日が暮れたら夜空を見て天の川を眺めよう」

 今晩は果たして晴れるだろうか。織姫と彦星の逢瀬は叶うだろうか。

「はいっ!ぜひっ!」

 芽衣は満面の笑みを咲かせていた。


 七夕から2日も経つと商店街の笹竹もすっかり仕舞われていた。朝職場に行く際に確認したのだった。芽衣に叱られたこともあり、いつもよりは周りに注意して歩いていた。

 その日はたまたま帰りが遅かった。研究の同僚という訳でもないが、東京帝大の教授と会う用事があったためであった。

 少しばかり街がざわついているように礼司は感じていたが、違和感はなかった。何より、普段を知らないから、ということもあろう。

「帰ったよ」

 屋敷の玄関をくぐると、ぱたぱたと芽衣が駆け寄ってきた。見れば、手に新聞を持っているようだった。

「おかえりなさいませ、旦那様」

「ああ。その手に持っているのは?」

「夕刊です。旦那様にお見せしようと……」

 礼司は歩きながら芽衣から新聞を受け取った。

『北平近郊で日支両軍衝突!』

 北平、元朝における大都、清朝における北京である。そこからほど近い盧溝橋というところで日本軍と中国軍が衝突したらしい。7月7日深夜に起きたとのことだから、もうじき2日経とうとしていた。

 世界平和を願った日に逢瀬を邪魔された織姫の涙雨ではなく弾雨が降るとはなかなか皮肉が利いている。何より、想定より早いが全く驚いていない自分にいちばん腹が立った。そして、そんな瑣末なことに腹を立てている自分に驚いていた。

 腹を立てるとしたら想定より早いこと。少なくとも自分の腹の中に抱える計画の中で、最前のものが今まさになくなろうとしていること。

「だ、旦那様……」

 芽衣はおずおずと礼司に声をかけた。

「……なんだ?」

「その、お顔が怖いです……」

 見れば、芽衣は怯えた顔をして礼司を見上げていた。それは、礼司が初めて見る表情だった。いつも爛漫としている彼女に、そんな表情をさせてしまった自分が憎らしい。

 ーー落ち着こう。

 礼司は大きく息を吸って吐いた。それで、腹の中に溜まっていた嫌な感情が逃がそうとした。完全には逃げてはくれなかったが、平静どおりに振る舞うくらいには回復した。

「ごめんよ、ちょっと考えごとをしていた」

 ぎこちなくも礼司が笑みを浮かべると、芽衣はほーっと胸をなでおろした。

「旦那様の怖いお顔を見るのは初めてでびっくりしちゃいました。そんなにこの記事は驚くようなことなのですか」

 ーーさて、芽衣に何と答えるか。

 今回の武力衝突は小規模であるし、何より華北で起こったことだ。満洲生まれの芽衣であればもしかしたら近くに知り合いがいるかもしれないが、礼司にはいない。我がことのように狼狽える理由はないのであった。

 冷静に考えれば小さな武力衝突に過ぎない。中国に巣食う共産主義者や民族主義者の動向は気になるし、特に日本陸軍の拡張主義にも火をつける可能性はあるが、今の日本の内閣は公卿出身の首相を戴くれっきとした文民政府であるし、中国の政権も安定しているとは言い難いが列強の帝国主義と対するよりも先に中国内部を安定させたいだろう。つまるところ、早いうちに両国の間で手が打たれる可能性が高い。

 とはいえ、戦火が拡大するようでは問題だ。北京や天津で止まればいいが、上海や広東に飛び火し、そこからも戦火が広がるようであれば極めて深刻な問題になりうる。中国には英吉利を初めとする列強の権益も多い。まかり間違って日英戦争でも起こると困るのは英国と日本の両方に国籍を持つ礼司なのである。

「……ほら、20年くらい前に欧州大戦があったろ?あまり記憶はないけど僕はあの頃英国にいたから、ちょっとね、あんなことがまた起こったらいやだなぁ、と」

「欧州の大戦はとてもひどいものだったと聞きます……」

 芽衣は納得したように何度か頷いた。

 嘘は言っていない。欧州大戦のような戦争を起こされても困るのだ。

 けれど、礼司の良心がちくりと痛んだ。そして、それを無視しようとする自分がいることさえ無視した。

「でもきっと大丈夫なのです。5年くらい前の満洲の時もびっくりしちゃいましたけど、すぐに終わって……」

 芽衣は無邪気な笑みを礼司に向ける。

 ーーああ、きっとそれが市井の人の感想なのだろう。

 礼司自身の記憶は薄いし、彼自身があまり食べ物に困った記憶もない。何せ彼がいたのは世界に冠たる大英帝国で、戦場は海峡を挟んだ向こう側だった。英国は自分たちの植民地は友好国と自由に貿易ができたのだ。それでも夜間の空襲があったことはうっすらと覚えているし、長じてからの英国留学では欧州大戦の話もよく聞いていた。

 ーーもしこんな無邪気な人が多いのだとしたら。

 きっと、日本もやがて大戦禍に呑まれていくのだろう。

 思わず、礼司は芽衣を抱きしめた。

「えっ、あのっ、旦那様……?」

 芽衣は礼司の腕の中でもぞもぞと動いているが、礼司は気にせずむしろ腕に込める力を強くした。

 明治のご維新以降、日清、日露の両戦役や欧州大戦、あるいはこの前の満洲での事変は全て勝ち戦なのだ。特に日露の時は銃後の国民も厳しい思いをしたようだが、勝利の美酒は何よりも甘いだろうし、目の前の苦しい生活から抜け出せるかもしれないと思えば意気揚々と足取り軽く奈落へと向かって行けるかもしれない。

 そもそも、欧州大戦を経験した欧州でさえ、独逸や伊太利のファシストの台頭により不安定化してきている。それを対岸の火事として眺め、むしろそれで儲けた日本の人達が無邪気になるのも仕方がない。

 そう思うと、礼司は芽衣があまりに不憫に思えてきた。近い将来に戦争が起こるとすると、きっといちばん犠牲になるのは彼女たちの世代だろうし、それに責任を負うには芽衣たちはあまりにも幼い。

 ーー僕がもっと早く生まれていれば。

 あるいは起こらぬままに戦争を終わらせることができたかも知れないのに。

「旦那様、だんなさまっ!ちょっと苦しいですっ!」

 なかなか離してくれない礼司にしびれを切らしたか、芽衣は大きな声を出した。

「あ、ごめん」

 礼司は腕を緩めると、顔を真っ赤にした芽衣はするりと彼の腕から逃れた。

「……やっぱり旦那様は破廉恥だと思います」

「違うんだけど、言い訳もできない……」

 哀れに思ったから思わず抱きしめたと言ってもきっと怪訝な顔をされるだろうし、その理由を言ったところでしょうがないだろう。

「……旦那様は偉い学者様で華族様です」

「偉くはないけど、一応そんな感じだね」

「一方で私は、芽衣は運良くそんな子爵様のお屋敷で住み込みで働かせて頂いている孤児の女中です」

 嘘は言っていないのだが、芽衣の表現は必要以上に自己を卑下しているようだった。

「だから、駄目です。ブン屋?とかに見つかったら記事にされちゃって旦那様が大変なことになりますっ!」

 礼司は芽衣の意図に得心がいった。

 華族の生活は多くの国民にとっては非日常的な華やかさがあると思うらしい。それで、よく雑誌などでは特集を組まれることも多い。また、華族の色恋沙汰、特に不倫や身分違いの恋というものは大きな話題になりやすい。

 若き華族の当主が屋敷で雇っている幼い女中に恋慕しているなど、きっと記事のタネとしては申し分ないに違いない。その場合、礼司としては自分のことより芽衣の将来が心配である。

「……いやまぁ、妹のようなものですって言ったら大丈夫かな?」

「……駄目だと思います」

 ーー芽衣の顔にほんの一瞬だけ浮かんだ暗い翳は、一体なんだったのだろう。

 しかし、芽衣はすぐにいつものような笑顔を浮かべた。

「まぁ、私は分かってるのです。旦那様は少なくとも破廉恥な気持ちで私を抱きしめたわけじゃないんですよね。まぁなんで抱きしめのかは分かりませんけど」

「……ちょっとね」

「多分旦那様は気持ちが昂っておいでです。すぐに紅茶を淹れてまいります。きっと落ち着くでしょう?」

 芽衣はくるりと身を翻すと、ぱたぱたと台所へと駆けて行った。

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