旧友
「子爵児玉礼司博士、ここでは敢えて児玉君と呼ばせて頂きますが、児玉君は今でこそ鬼や悪魔と言われておりますが、私自身の印象は全くかけ離れておりました。旧制中学時代、また、英国留学当時の手紙の印象からは、確かに情に薄い印象はあるが、それは博愛主義、すなわち全人類に対する公平な情があったからなのではなかろうかと思います。尤も、彼は英国留学から帰国後、急速に変わりました。それは、きっと、傍らにいた少女のお蔭だったのでしょう」
ーー東京大学理学部教授和田哲治博士、旧制中学時代の同級生児玉礼司博士について
6月の初め頃、礼司が帰宅してから1ヶ月ほど経った頃だった。東京帝大の研究所に正式に働き始めてからだいたい1週間ほど経った。
大学に雇われている研究員であるが、学生を指導わけでもなく、何か講義があるわけでもないため、礼司としては気楽なものであった。とはいえ、同じ研究所にいる学生に対しては指導といかずとも議論に参加し、英国や米国の最新の研究を紹介するといった交流は必要だった。
その日は午前中研究所に向かい所用を片付けたあと、研究所の学生を連れて屋敷に帰っていた。
「相変わらず児玉の家はでかいな」
眼鏡をかけ、背は高めで髪を無造作に撫で付けた青年が言った。
「そりゃあ、僕が英国に行ってたくらいで屋敷が小さくなっても困る」
「でもお前のことだ、使用人はほとんど解雇したんじゃあないのか?」
「ああ、1人だけ置いてる」
礼司は鍵を開け玄関を開いた。鍵をかける必要も無い気もするのだが、芽衣が1人だけ屋敷にいる時に暴漢に入られても困る。
いつもであれば礼司が帰ってきたことに気づいた芽衣がぱたぱたと駆け寄ってくることが多いのだが、その日は寄ってこなかった。おそらく買い物に行っているのだろう。
この1ヶ月の間で、礼司よりも芽衣の方が金銭感覚がしっかりしており、倹約家であることが判明している。そのため、児玉家の日々の資金繰りについては全て芽衣に一任していた。それでも律儀なもので、芽衣は週に一度その週の家計を報告してくれる。
正直、芽衣が少しばかり自分のために金を使っても礼司はとやかく言うつもりはなかったが、彼女は自分の金と児玉家の金をきっちりと区別していた。
「ほら、入りたまえ」
「お邪魔します」
礼司が連れてきたのは、確かに勤め先の学生であるのだが、中学時代の同級生でもある、和田哲治という男だった。礼司が英国にいる間も手紙をやり取りしていた中である。
「……こんなに広くて人がいないとなかなか寂しいものだな」
哲治がぼそりと呟いた。
ふむ、と礼司は腕を組む。
「別に僕は寂しいと感じたことはないがね」
「お前はそもそも人嫌いの傾向があるからな。どうせ英国でも変わらんかったろう?」
「いや?英吉利と大陸を行き来して色んな人と会ってきたぞ?」
「はん!どうせどこそこの教授だとかや有望な若手研究者とか相手だろう?俺が言っているのは、例えば学友とパブに入り浸る、どこそこの令嬢と恋愛する、博打を打つ、そういったことを言っているんだ」
礼司は思わず首を傾げた。
「……いや、そんなことして楽しいか?」
「この堅物め」
哲治はにししと笑った。
子供の頃から読書と鍛錬に明け暮れていた礼司と異なり、哲治は遊び人であった。尤も、親が資産家というわけでもないため、その金がどこから出てきているかを礼司は知らなかった。あるいは女に貢がせているとか、そういうことかもしれない。
しかし、それでいて哲治は学業成績は良いのだった。礼司が英国へと行く前は、彼は万年2位であり、礼司が英国へといったあとは首席となったと聞く。
「まぁいい、例の件について書斎で話そう」
「それはいいが、児玉の期待には応えられないと思うぞ?」
「なに、種をまくときはたくさんまくものだ。それに、僕は君を信頼している」
「へいへい」
礼司は哲治と書斎に向かった。彼が今日児玉家を来訪することは知っていたため、既に机の上には4冊ほどの分厚い英語の本と3冊のノート、それに紙束が重ねられていた。
礼司は紙束の中から1枚書類を手に取ると、それを哲治に渡した。
「これが話してた原稿だ。他言無用で頼む」
「言われずとも。それに、俺がなんか言ったところで誰も何も信じないよ」
哲治は原稿に目を通した。段々と目元が険しくなる。
「……俺が前に聞いていた趣旨とは違うな」
「大切なことには一切触れないとそういう原稿になる」
「しかし『人類に、叡智に、科学に、栄光あれ』か。よく言うよ」
哲治は小馬鹿にするかのように鼻を鳴らした。
「本心だ」
礼司は憮然とした。正真正銘の本心だった。産業革命以降、人類は飛躍的な発展を遂げている。それを守り育てていくことが科学者の使命であると思っていた。
「……それで?どうせお前のことだ、信頼できる人間向けの趣意書も用意しているんだろ?」
礼司は無言で紙束から1枚の紙を取りだし、哲治に渡した。
哲治はその紙に目を落とした。
「……ラテン語か、ちょっと読むのに時間がかかる」
「ラテン語だけじゃないぞ。よく見ろ」
「は?……うわ、本当だ。独逸語も英語も仏蘭西語もあるな。これは西班牙語か?」
「読む気が失せるだろ?万一にも他人の手に渡っては困るからな」
「俺の読む気も失せたがな……」
文句を言いつつ哲治はその書類を読んでいった。分量としてはあまり多いものではなく、日本語であれば数分程度で読めるだろう。
とはいえ、外国語で、しかもそれを1行単位に言語を変えて書かれている。読めないことは無いが、1行ごとに頭を切り替える必要があり、時間がかかること間違いなしだった。
読みながら、段々と哲治の顔色が悪くなっていく。
「……お前、この中にあるH論文というのが」
「僕の博士論文だ。完成自体はもっと前だがね」
「……計画の前提の実現可能性は?」
「高い」
礼司は断言した。
「日本は既に満洲の確保に武力を用いている。独逸もラインラントへの進駐で既にヴェルサイユ体制に反旗を翻している。ソ連も欧州大戦で失った領土に恋々としているだろう。西班牙の内戦には独伊とソ連が兵を出している。どういう形で起こるにせよ、あとはきっかけと決意の問題だ」
哲治は押し黙った。礼司の言葉を咀嚼しているかのようだった。
「……まぁ、先の欧州大戦のような大戦が起こらなければ問題ない。この計画は必要なくなるし、何も問題はないからな」
「……ああ」
哲治は手にしていた紙を礼司に返した。礼司はそれを受け取ると、懐にしまう。
「それに……」
礼司がより詳しいことを話そうとしたところで、書斎の扉が叩かれた。程なくして、芽衣がお盆を持って入ってきた。
「お客様がお見えとのことなので、紅茶をお持ちしました」
朝のうちに芽衣には哲治の来訪を知らせていた。予定ではもう少し遅くなる予定だったから、それで帰宅した時には芽衣は留守だったのかもしれない。
「ああ、ありがとう。帰った時にはいなかったけど、買い物に行っていたのかい?」
「はい。帰ってきたら見慣れないお靴があったので急いで淹れてきましたっ」
芽衣は机の上にお盆を置くと、ティーカップに紅茶を注いだ。給仕をし終えたところで、芽衣は哲治に向き直ると深々とお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。私は児玉家の使用人の、川島芽衣と申します」
顔を上げると、芽衣は手にしていたお盆で口元を隠した。最近はひと月ほど前ほどは人見知りをしなくなっていたが、それでも初対面の人には必要以上に距離を取ろうとしているように見受けられる。
「あ、ああ」
哲治は面をくらったかのように惚けていた。
「芽衣、給仕は必要ないから自由にしてていいよ」
「ありがとうございます。それではごゆるりと」
芽衣はぺこりとお辞儀をすると、部屋をぱたぱたと出ていった。
哲治はしばらく芽衣の出ていった扉見ていたが、やがて礼司に向き直った。
「……今の女の子が1人だけ残った使用人?」
「そうだが?」
何を驚いているのかと礼司は怪訝に思った。確かに芽衣の髪と瞳の色は純血の日本人から離れているが、哲治はそのようなことをあまり気にする印象はなかった。
年齢でいえばやや幼いが、子供のうちから奉公に出ることはよくあることだ。口減らしの一環でもあるから、正直早い方がいいという事情もあろう。
「……児玉、俺は学生の頃お前のことを硬派な奴だと思っていた。女に興味なく遊びもせずただひたすら本を読んでる、つまらない奴だとも思ってた」
「おい、その表現は傷つくんだが」
「それが実は少女好きだったとは。いや、分かる。俺も好きだ。俺はお姉さんも好きだが娘っ子も好きだ。だか、ちとばかし、というか割と幼くないか……?」
そこで、哲治ははたと気づいたかのように手を打った。
「ああ、分かったぞ。お前、光源氏みたいに手元で育てて娶りたいんだな?理想の女性がいなければ作ればいい。なるほどなるほど、華族様は考えることが雅なこと」
「……殴るぞ?」
「……違うのか?」
「別に芽衣はただの使用人……とまでは言わんが、妹みたいなもんだ」
「なるほど、妹が趣味、と」
「よし分かった。殴る」
「いや、冗談だ冗談だ」
哲治は両手を広げて左右に振った。
礼司はしばらく拳を握りしめていたが、溜息をつくと手を広げた。
「……しかし、安心したよ」
哲治はしみじみといった風に呟いた。
「ん?」
「いやなに、英国留学前のお前はどうにも危うかったしな。いや、今もちょっと危ういところがある。けれど、あの子の前では地に足が着いているというか、普通な気がして、良かったなぁ、と」
礼司は哲治の言いたいことを量りかねて眉根をひそめた。
「……大切なんだろ、あの少女が」
「……まぁ、使用人ということは僕の家族のようなものだからね」
礼司の言葉に、哲治は目を細めていた。
哲治が児玉家を辞したあと、書斎を片付けていた礼司の元に芽衣がぱたぱたと駆け寄ってきた。
「旦那様、郵便なのですけど、宛名が英語で分かりませんっ」
そう言って彼女が差し出した封筒には、英語で住所や宛名が書かれていた。尤も、住所はローマ字で、アルファベットが読める芽衣であれば読めるだろう。
「住所は確かにここなのですけど、宛名がらいなんとかさんで……」
Raymond D Howard
宛名には流麗な筆致でそう書かれている。
「レイモンド・D・ハワードって読むんだ。そしてこれはここへの手紙で合っている」
「はえー、そのレイモンドさん?は旅行中かなにかなのですか?」
「ああいや、僕のこと」
「へー……えっ?旦那様?」
「言ってなかったか。僕は生まれが英国でね、それに母も英国人だったから英国籍があるんだ。それで、母の家の姓を貰い受けて英国名も持っているんだ」
彼が生まれる前の年に英国に国籍法が制定されたのだが、それによると英国で生まれた人間を英国人としている。よって、倫敦で生まれた礼司は英国籍も持っているのだった。同時に、父が日本人のため日本国籍も保有しており、二重国籍にあたった。
なお、日本の民法には礼司のような生まれた時からの二重国籍者の場合、解消する手段がなく、彼自身としてもそれで困っていないため児玉礼司という名前とレイモンド・D・ハワードという名前を使い分けていた。
「はえー、旦那様は英国の人でもあるんですか……」
「そう。それもあって英国に行っていたんだよね。母の実家に下宿していたわけ」
芽衣も父は米国人、母は日本人、生まれは満洲で当時は法制度上は中華民国だ。とはいえ、彼女はきっと日本国籍しか持っていないだろう。
「旦那様」
「ん?」
「旦那様はいつか……」
芽衣は口をつぐんで俯いた。珍しく、どこか陰のある表情で、しばらくなにやら考え込んでいたようだが、やがてふるふると首を横に降った。
「いえ、なんでもありません」
なんとなく、礼司には芽衣が何を言おうとしたか分かった。だが、敢えてそれには触れなかった。
ーーいつか英国に戻るなんて、その時がきたら言えばいい。
芽衣は妹のようなものだ。できれば芽衣に嫁の貰い手を都合してやりたいが、彼女の年齢を考えると、そのように悠長なことは出来ないかもしれない。
あるいは、例え別れたとしても、いつか迎えに行ける日が来るのだろうか。
「そのお手紙はどなたからのものなのですか?」
芽衣は柔らかに微笑んでいた。
「ああ、英国時代の恩師でね。倫敦の大学の教授だ」
芽衣から話題を変えてくれたことに礼司はほっとしていた。英国に帰る帰らないという話を、今の礼司は少々重く感じる。日本に帰国してから1ヶ月ほどであるし、こちらでやらなければならないこともまだたくさん残っている。
ーー何より芽衣がいる。
かつて、貴族や金持ちにとって、出家は一種のステータスだった。仏門に入り修行をすることで来世をより良いものにしていくのだ。だが、妻や子供といった人と人との絆が邪魔をして出家という本意を遂げられないことも多かったという。
今まで、例え親にさえ感じなかった思いを、たったひと月ほど過ごしただけの少女に感じている。なるほど、少女好きと言われても仕方ないかもしれない。10年のあいだ心に抱き突き進んできた意志が鈍ってきたようにさえ思えるのだから。
礼司は芽衣の頭を撫でた。ふわふわと癖のある白金色の髪は触り心地が良い。
「……?」
芽衣は小首を傾げて礼司を見上げた。なんとも可愛らしい小動物のようで、礼司の頬は思わず緩んだ。
「……芽衣は可愛いな」
いつかのように破廉恥と罵ることもなく、芽衣は照れたように微笑んだ。